松田村(読み)まつだむら

日本歴史地名大系 「松田村」の解説

松田村
まつだむら

[現在地名]足利市松田町

北方の赤雪せきせつ山と仙人せんじんヶ岳の間より発して南流する松田川の流域に位置し、沖積平地が南北に長い谷を形成する。南西は月谷つきや村。元禄一一年(一六九八)に上松田村・下松田村に分村し、明治五年(一八七二)に両村が合併して松田村になったといわれ(地誌取調)、北台山南腹にある観音堂境内の墓地に「文化六年己巳三月吉日建 下松田村講中」と刻まれた石造供養塔がある。観応三年(一三五二)七月二九日の足利尊氏感状写(古今消息集)に「下野国松田城」とみえ、佐野新右衛門尉が城攻めの際の軍忠を賞せられている。これは馬場ばば山東麓にある宗泉そうせん寺の南方山麓にある松田城跡のことであろう。松田川上流には、文明年間(一四六九―八七)松田邦隆が築城したという松田湯まつだゆさわ城があった。「足利長尾顕長家来」に当地の者として湯沢越前守(永八〇貫文)・関口太郎左衛門(永五〇貫文)の名がみえる。

寛永一〇年(一六三三)には下総古河藩領、正保元年(一六四四)分家の土井利房領となる。元禄郷帳では幕府領と旗本富田領の二給。改革組合村では足利藩領と旗本富田領の二給で、幕末に至る。


松田村
まつだむら

[現在地名]三原町榎列松田えなみまつだ

大榎並おえなみ村の北にあり、東は上八太かみはだ村、西は戒旦寺かいだんじ(現西淡町)。中央部を円行寺えんぎようじ川がほぼ北流する。古くは下八木しもやぎ村と称した(元禄郷帳)。天正一四年(一五八六)一一月三日の淡路国御蔵入目録に「下八木」とみえ、二二八石が羽柴秀吉の蔵入地となっていた。正保国絵図でも下八木村で高三四九石余。天保郷帳には松田村とあり、高三五五石余。反別戸数取調書によると反別三三町五反余、高三八一石余、うち蔵入高一八八石余・給知高二六一石余。給人は稲田八郎右衛門ら七人。


松田村
まつだむら

[現在地名]岩瀬町松田

岩瀬盆地南部に位置し、南は曾根そね村、西・北は友部ともべ村。江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。「郡官日省録」(武藤家文書)によると慶安三年(一六五〇)検地で村高四九〇・六〇九石となり、万治三年(一六六〇)と延宝五年(一六七七)の新開検地で合せて一一石余を打出す。「茨城郡村々様子大概」(笠間稲荷神社蔵)によれば、村には林三、村山一、堰三、溜池四、秣場二があり、文化期(一八〇四―一八)の戸数二六・人数一〇一、馬七。弘化三年(一八四六)の笠間領内人別調(来栖家文書)によれば戸数二七・人数一五二、馬一四。生活状況は中ノ上二、中一、下ノ上八、下八、極窮七、その他一であった。


松田村
まつだむら

[現在地名]和田町松田

海発かいほつ村の北から西にかけて位置し、伊南房州通いなんぼうしゆうどおり往還が通る。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高四〇四石余、うち田方三一〇石余。里見氏給人領。寛永五年(一六二八)ないし同一〇年に旗本大久保氏に与えられ、以後は海発村と同様の変遷をたどる。明和四年(一七六七)の十ヵ村組合連印帳(水島家文書)によると、毎年三月に会合を開き、御触れの実行、博奕の禁止、神仏行事の贅沢自粛その他を松田村・小向こむかい中三原なかみはら小川おがわ東白渚ひがししらすか・西白渚・下三原・海発・真浦もうら滝原たきのはらの一〇ヵ村で取決めている。


松田村
まつだむら

[現在地名]名護市我部がぶ

羽地はにじ間切の離島屋我地やがじ島の西側に位置する。屋我地島で我部がぶ村と松田村を一緒にした時、松田村の人々は現在の我部の東側の区域に居住していたと想定されている。故地は現今帰仁なきじん天底あめそこ付近とされる。間切所属の変遷とその事情は呉我ぐがー村と同じ。絵図郷村帳今帰仁なちじん間切「まつざ村」とみえる。琉球国高究帳では我部村と併記され、同間切「かぶ村・まつざ村」とみえる。「琉球国由来記」には松田村と記される。


松田村
まつだむら

[現在地名]大森町松田

雄物川西岸にあり、北に接する板井田いたいだ村から分村した新田村

宝永二年(一七〇五)の平鹿郡村々御黒印高帳(秋田県庁蔵)に高一九六石余。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に「松田村新田の字除る (中略)板井田村地形之内野ノ□出川原限書見出、仙北郡宮林村勘右衛門参候て開出地」とあり、また、文政七年(一八二四)の「雪の出羽路」にも「そもそも此村は横手の家士とのひと能味伝治某の上祖、宮林村なる能味勘右衛其新墾にひばりところ 也」とある。


松田村
まつたむら

[現在地名]勝山市荒土あらど町松田

滝波たきなみ川右岸の高位扇状地中央部に位置し、南はまつさき村。村名は、天文八年(一五三九)一〇月一八日の平泉寺賢聖院々領所々目録(平泉寺文書)に「松田村、松崎堂之後」とみえる。慶長五年(一六〇〇)から福井藩領、寛永元年(一六二四)勝山藩領、正保元年(一六四四)幕府領で福井藩預地、貞享三年(一六八六)幕府直轄地、元禄五年(一六九二)以降美濃国郡上藩領となった。


松田村
まつだむら

[現在地名]寺泊町松田

郷本ごうもと川が島崎しまざき川から分流して丘陵の谷間に入る入口の丘陵の縁辺にある集落。正保国絵図には記載がなく、もと田頭たがしら村の枝郷。文政七年(一八二四)の御案内帳(原田仁一郎家文書)によると、明暦二年(一六五六)村上藩の検地を受け、高七九石余を検出


松田村
まつだむら

[現在地名]立田村立田 松田

木曾川鵜戸うど川の末流に囲まれた村。東は鵜戸川を隔てて上古川かみふるかわ村、西は木曾川に接する。寛永元年(一六二四)造成の立田新田の一村。「徇行記」によれば、概高九四九石余は一円蔵入地。田は三五町二反一畝余、畑は一六町六反一畝余。「寛文覚書」に戸数七九、人数四八〇とある。「徇行記」は「卑湿ノ地ニテ高ニ準シテハ昔ヨリハ戸口少クナレトモ、村人ノミニテ佃力足リ、農事ヲ以テ生産トシ、水災ノ年ニハ漁事ヲ以テ生産ノ助トス、村中ニ小船四十艘ホトアリ、常ニ深タマリノ所ユエニ船ニテ往来シ耕耘ヲスル所ナリ、悪水ハ大海用ヘ落スナリ」とし、曹洞宗竜音りゆうおん寺、一向宗東派の誓光せいこう寺を記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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