コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

松平康福 まつだいら やすよし

2件 の用語解説(松平康福の意味・用語解説を検索)

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

松平康福 まつだいら-やすよし

1719-1789 江戸時代中期の大名。
享保(きょうほう)4年生まれ。松平康豊(やすとよ)の長男。享保21年石見(いわみ)(島根県)浜田藩主松平(松井)家5代となる。下総(しもうさ)古河(こが)藩,三河岡崎藩をへて,明和6年浜田に再移封(いほう)される。この間,奏者番,寺社奉行,大坂城代をつとめ,明和元年老中にすすむ。寛政元年2月8日死去。71歳。通称は弥三郎。周防守(すおうのかみ)。
【格言など】その鶴の寿命は千年目なので死んだのであろう(過失で愛鳥を死なせてしまった家臣をかばっての言葉)

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

松平康福

没年:寛政1.2.8(1789.3.4)
生年:享保4(1719)
江戸中期の老中。石見国(島根県)浜田藩主。団之助,弥三郎,のち周防守。父康豊,母は井上氏の娘。元文1(1736)年襲封し藩主となり,周防守に任ぜられる。寛延2(1749)年奏者番となり,寺社奉行,大坂城代,西丸老中を経て,明和1(1764)年5月本丸老中となる。その間,浜田,下総古河(茨城県),三河(愛知県)岡崎と転封を重ね,ふたたび旧領浜田へ戻る。次女が田沼意知の室だった関係で田沼派とはいえ,老中首座の地位にいながら,田沼全盛期には田沼に政治的に圧倒された。天明5(1785)年に1万石加増(6万1000石)された。松平定信の登場で8年4月老中を辞職した。

(山田忠雄)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内の松平康福の言及

【岡崎藩】より

…しかし,家中の反対が強く,改革は失敗し,忠辰は重臣らによって幽閉されている。1762年(宝暦12)忠任のとき肥前唐津に移され,松平康福が下総古河から入封した。康福はわずか8年余の在城で石見浜田へ移され,この地の本多忠粛(ただとし)が入封し,忠典(ただつね),忠顕,忠考(ただなか),忠民(ただもと),忠直とつづいて明治維新をむかえた。…

※「松平康福」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

松平康福の関連キーワード松平康任石見潟西村菊渓船山耕山本多忠典本多忠粛本多忠敞松平康員松平康映松平康官

今日のキーワード

大寒

二十四節気の一つ。元来,太陰太陽暦の 12月中 (12月後半) のことで,太陽の黄経が 300°に達した日 (太陽暦の1月 20日か 21日) から立春 (2月4日か5日) の前日までの約 15日間で...

続きを読む

コトバンク for iPhone