松平康福 まつだいら-やすよし
1719-1789 江戸時代中期の大名。
享保(きょうほう)4年生まれ。松平康豊(やすとよ)の長男。享保21年石見(いわみ)(島根県)浜田藩主松平(松井)家5代となる。下総(しもうさ)古河(こが)藩,三河岡崎藩をへて,明和6年浜田に再移封(いほう)される。この間,奏者番,寺社奉行,大坂城代をつとめ,明和元年老中にすすむ。寛政元年2月8日死去。71歳。通称は弥三郎。周防守(すおうのかみ)。
【格言など】その鶴の寿命は千年目なので死んだのであろう(過失で愛鳥を死なせてしまった家臣をかばっての言葉)
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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世界大百科事典(旧版)内の松平康福の言及
【岡崎藩】より
…しかし,家中の反対が強く,改革は失敗し,忠辰は重臣らによって幽閉されている。1762年(宝暦12)忠任のとき肥前唐津に移され,松平康福が下総古河から入封した。康福はわずか8年余の在城で石見浜田へ移され,この地の本多忠粛(ただとし)が入封し,忠典(ただつね),忠顕,忠考(ただなか),忠民(ただもと),忠直とつづいて明治維新をむかえた。…
※「松平康福」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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