ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
高等法院
こうとうほういん
parlement
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14世紀から18世紀末まで、フランス王国において最終審としての裁判機能を果たした最高諸法院Cours souverainesの一つ。
[志垣嘉夫]
王国でもっとも広い管轄地域をもつ。起源はクリア・レギスCuria Regis(国王評議会)で、14世紀の初頭に組織された。当初は下級審からの上訴を審議する大審議室Grand' Chambre、書証に基づき訴訟を裁く調査室Chambre des enquêtes、訴訟人の請願を受理する申請室Chambre des requêtesの3室から構成されていたが、16世紀になってから、刑事事件を担当する刑事室、海魚の売買に関する訴訟を審理する海魚室、夏季休廷中だけに開設される臨時審議室が相次いで創設された。全国三部会が招集されなかった17、18世紀には王国基本法の番人として政治に介入し、ルイ15世幼少の摂政期にはルイ14世の遺言を破棄した。パリ高等法院の強力な武器は、王令登記権と建白権であり、王権の諸立法は当高等法院の審査と登記を経なければ効力を有することができなかった。もし高等法院が登記を拒否すれば、口頭か文書による建白においてその理由を開示しなければならず、ここに王権との間に緊張関係が生じて、王権とまっこうから対決し、大法官モープーRené Nicolas Charles Augustin de Maupeou(1714―92)の改革によってパリおよび地方の高等法院は廃止された。しかし、ルイ16世の治世開始とともに原状に復された。パリ高等法院は、1787~88年にアリストクラシーの反王権闘争を主導して、フランス革命前夜における貴族の反抗を強化した。
[志垣嘉夫]
パリと同じく最高諸法院に属する地方高等法院も、大部分がそれぞれの大封建領主の古い裁判法廷に起源をもつ。彼らの大所領が王領地に併合されたあと、王権によって高等法院としての開設が認可された。16世紀初頭にはトゥールーズ(1443)、グルノーブル(1453)、ボルドー(1462)、ディジョン(1477)、ルーアン(1499)、エクス(1501)の六つを数えたが、その後もドンブ(またはトレブー、1523。18世紀後半に廃止)、レンヌ(1553)、ポー(1620)、メス(1633)、ブザンソン(1672)、ナンシー(1775)などにも設置された。アルザス、ルシヨン、アルトア、コルシカ島には国王評議会Conseil souverainが置かれて、高等法院と同等の機能を果たした。
パリおよび地方高等法院の司法官僚は、売官制と世襲制により彼らの地位と身分を保持し、種々の義務の免除を受けると同時に、貴族身分への上昇転化の資格をもって、多くの特権を獲得した強力な社団を構成していた。
[志垣嘉夫]
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…フランスの行政裁判制度の起源は革命以前のアンシャン・レジームにさかのぼる。アンシャン・レジームのもとにおいては行政と司法の観念は必ずしも明確ではなく,一方では国王直属の官僚機構がその所管事項について行政権と裁判権を行使し,他方では保守的な封建貴族の牙城であった各地の高等法院(パルルマンParlement)が伝統的な各種の権限を行使して,国王の官僚機構とつねに対立抗争していた。とくに高等法院は,判決の形式で一般的な立法をなすことのできる権限や法令の登録権によって,国王の試みる改革的立法を妨害してきた。…
…
[フランス]
このような一方における法治国家=立憲国家,他方における行政制度の成立・展開を前提条件とする行政法の成立・展開の始原は,フランス行政法にみられる。フランスでは,フランス革命以前のアンシャン・レジーム期における伝統的保守的な司法裁判所としての高等法院=パルルマンParlementと王権との抗争,とくに後者の前者に対する不信という特殊な沿革およびモンテスキュー型権力分立の考え方に基づいて,19世紀に至って行政事件の裁判権が司法裁判所から行政裁判所たる国参事院=コンセイユ・デタConseil d’Étatおよび県参事院=コンセイユ・ド・プレフェクチュールConseils de préfectureの手に移されることとなり,公役務service publicの観念によって行政法に関する事件は,以後,行政裁判所の管轄とされるに至った。フランス行政法は,基本的に,このようなコンセイユ・デタを中心とする行政裁判所の判例の集積によって,独自の法体系として展開してきた。…
… 王領拡大と権力集中の政策は領邦権力を風化させ,ルイ9世(聖王)の治世(1226‐70)には,封建的主従関係が国王を頂点に一元的に整序された〈封建王政〉が典型的に実現した。地方行政における〈バイイbailli〉や〈セネシャルsénéchal〉といった有給官僚はフィリップ2世の治下に出現しているが,ルイ9世の時代には高等法院(パルルマン)が会計院とともに国王会議(クリア・レギス)から分離した。敬虔な信仰に生きた有徳のルイ9世の治世は,内治・外交とも正義と平和の精神に貫かれ,西ヨーロッパの諸王は彼に紛争の調停を依頼するほど,国際的にも王権の威信は高まった。…
…フランスの行政裁判制度の起源は革命以前のアンシャン・レジームにさかのぼる。アンシャン・レジームのもとにおいては行政と司法の観念は必ずしも明確ではなく,一方では国王直属の官僚機構がその所管事項について行政権と裁判権を行使し,他方では保守的な封建貴族の牙城であった各地の高等法院(パルルマンParlement)が伝統的な各種の権限を行使して,国王の官僚機構とつねに対立抗争していた。とくに高等法院は,判決の形式で一般的な立法をなすことのできる権限や法令の登録権によって,国王の試みる改革的立法を妨害してきた。…
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[フランス]
このような一方における法治国家=立憲国家,他方における行政制度の成立・展開を前提条件とする行政法の成立・展開の始原は,フランス行政法にみられる。フランスでは,フランス革命以前のアンシャン・レジーム期における伝統的保守的な司法裁判所としての高等法院=パルルマンParlementと王権との抗争,とくに後者の前者に対する不信という特殊な沿革およびモンテスキュー型権力分立の考え方に基づいて,19世紀に至って行政事件の裁判権が司法裁判所から行政裁判所たる国参事院=コンセイユ・デタConseil d’Étatおよび県参事院=コンセイユ・ド・プレフェクチュールConseils de préfectureの手に移されることとなり,公役務service publicの観念によって行政法に関する事件は,以後,行政裁判所の管轄とされるに至った。フランス行政法は,基本的に,このようなコンセイユ・デタを中心とする行政裁判所の判例の集積によって,独自の法体系として展開してきた。…
…大法官について,資格の定めはないが,バリスターbarrister―法廷弁護士の称号を有する者の中から,任命されるのが通例である。貴族院House of Lordsおよび控訴院Court of Appealの裁判官は,首相の助言に基づいて国王が任命し,高等法院High Courtの裁判官は,大法官の助言に基づいて国王が任命し,このほかの裁判官は大法官が任命する。これらの裁判官は定年に至るまでその職にとどまることができ,法律上は議会両院の決議によって罷免されることがありうるが,近年はその例はない。…
…大統領(高等司法会議議長),司法大臣(同副議長)および大統領によって任命される9名の任命委員から構成される。(3)高等法院Haute Cour de Justice 大統領の大反逆罪,閣僚が職務上犯した重罪,軽罪について裁判する。両院からそれぞれ選出された12名ずつの議員をもって構成される。…
… イタリアでははやくも12世紀に法律家身分が形成されており,フリードリヒ2世の宮廷では法律家団が重要な役割を演じている。フランスでは法律家(レジストlégiste)が13世紀中葉以降国王に仕えているが,同世紀末にはパリの高等法院(パルルマン)の裁判官の過半数を法律家が占め,14世紀に入ると独占するところとなった。ドイツでは法律家(ユリストJurist)という外来語が1300年ごろには定着して用いられており,ルドルフ1世以来,法律家はつねに国王の顧問会に席を占めている。…
※「高等法院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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