判例により、民法や国家賠償法などで損害賠償の責任を負う過失は、自らの行為による結果(損害)の発生は予見できたので、結果を回避する義務を負っていたのに、それを怠ることとされている。裁判では、結果を予見できたか(予見可能性)や結果の発生は回避できたか(結果回避可能性)、結果回避義務に違反したかなどが争われる。
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一般に、結果発生の可能性がある場合、行為者が注意をすれば、この結果の発生を予見しえたのにもかかわらず、不注意によって認識しないこと(すなわち、注意すべきであるのに注意しなかったこと)を意味する。不注意とは、注意義務に違反することをいう。結果の発生を認識した場合の「故意」と区別される。法律用語としては、過失は故意と並ぶ責任の形式・要素であり、故意がないことが前提となる。
[名和鐵郎]
刑法上の基本原則の一つである責任主義に基づき、犯罪が成立するためには、行為者に故意または過失が認められなければならず、不可抗力や無過失による行為は処罰できない。しかも、犯罪は原則として故意犯であり、過失は、法令により特別に処罰する旨の規定がなければ犯罪とはならない(刑法38条1項)。ただ、今日のように科学技術や産業の発達が目覚ましく、しかも社会が複雑化するのに伴い、たとえば交通事故、医療事故、企業災害など、反覆継続して行われる危険な活動については、過失犯、とくに業務上過失が重要な意味をもっている(なお、自動車運転上の過失による場合は、業務上であるか否かを問わず、刑法第211条2項の自動車運転過失致死傷罪として処罰される)。さらに行政刑法の領域では故意犯とともに過失犯が広く処罰されており、過失犯はまさに「現代型犯罪」の典型であるといえる。
[名和鐵郎]
過失犯が成立するためには、故意犯とも共通する犯罪の一般的要件、たとえば実行行為、結果、因果関係など客観的要件を満たすことが必要である。そして、過失犯に固有の主観的要件は、消極的要件としては、故意が存在しないことであり、積極的要件としては、行為者に不注意、すなわち注意義務違反が認められなければならない。この注意義務違反こそ過失犯特有の中核的要件である。
注意義務の要素として、一般的に、結果回避義務と結果予見義務の二つがあげられている。結果回避義務とは、結果発生の危険があり、しかもこの結果が回避できる場合に、結果発生を防止するための具体的措置(作為または不作為)を講じるべき義務をいう。また、結果予見義務とは、結果発生の危険がある場合に、この結果を予見すべき義務である。この義務は、結果発生が予見できることを前提とするから、その判断にあたって予見可能性が重要な意味をもつ。
[名和鐵郎]
注意義務における結果予見義務と結果回避義務のうち、いずれに重点を置くべきか、また、だれを基準として判断すべきかなどが活発に議論されてきた。「新旧過失論争」とよばれる対立がそれである。旧過失論は一般に、「過失は行為者の心理面に係る主観的要素(責任要素)であるから、あくまで結果予見義務およびその前提としての予見可能性(主観的注意義務)こそ注意義務の本質である」と説明する。これに対して新過失論は、「過失は行為者の主観面に係る責任要素にとどまらず、その前提として、まず社会生活において一般的に必要とされる注意義務(客観的注意義務)を尽くしたか否かがより重要であるから、構成要件または違法の要素としての結果回避義務が本質的である」と指摘する。
しかし、今日では、いずれの立場においても、過失犯が成立するためには、故意犯の場合と同様に、客観的要素と主観的要素が必要であるから、一般的には注意義務の要素として結果回避義務と結果予見義務の両方が要求されている(ただ、これらの義務が、構成要件要素、違法要素、責任要素のいずれに属するかなどのいわゆる体系論の問題は残る)。
そして、結果予見義務の前提としての結果予見可能性に関して、どのような事実に対して、どの程度の予見を要するかについても、新旧過失論争では大きな問題とされた。旧過失論では、結果予見義務を重視する立場から、当該行為者における具体的な予見可能性を要すると解されるが、新過失論では、結果回避義務が強調され、結果予見義務については必ずしも具体的予見可能性を要しないとされて、そのなかには不安感・危惧(きぐ)感で足りるとする見解さえみられる(このような見解は、「危惧感説」とか「新々過失論」とよばれる)。この点について、今日の判例では、因果経過の「基本的または重要な部分」について具体的な予見可能性があれば足りると解されており、学説においてもこのような見解を支持する者が多い。
[名和鐵郎]
過失犯の成立要素としての注意義務、とくに結果回避義務の存否を判断するにあたり、道路交通法のような行政取締法規は注意義務の根拠とはならない。たとえば、自動車を運転して通行人を死傷させた場合、速度超過違反によって刑法上の注意義務違反(過失犯)を肯定してよいわけではない。行政取締法規違反があったからといってただちに注意義務違反があったとはいえないし、逆に、行政取締法規を遵守していたからといって注意義務違反を免れうるわけではないのである。
そこで、注意義務の存否は具体的事案に即して個別的に判断せざるをえないが、この判断にあたり「信頼の原則」という考え方がある。これは、もともと道路交通事件につき提唱されたものであり、交通関与者は相手方の適法・適切な行動を信頼することが許され、かりに相手方が不適法・不適切な行動に出たことにより結果が発生しても、行為者は刑法上の過失責任を負わない、というものである。この原則が適用されるためには、(1)行為者が相手方の適法・適切な行動を現に信頼していたこと(信頼の事実)、(2)行為者がそれを信頼することも相当と認められること(信頼の相当性)が必要である。この信頼の原則は車両対車両の関係では広く適用されうるが、車両対歩行者との関係では、今日の日本の道路事情のもとでは、その適用も慎重でなければならない。さらに、信頼の原則は、本来、対等な立場で危険を回避しうるし、またその責任を負うという関係を前提とするから、企業災害に対する監督過失のように監督者と被監督者といった上下関係にある場合には、この原則を一般的に適用することには疑問がある。前述したように、注意義務の存否は具体的事案に即して個別的に判断されるべきであるからである。
[名和鐵郎]
過失には、次のようにいくつかの重要な分類がある。
(1)「認識のある過失」と「認識のない過失」 この点につき、未必の故意と認識のある過失とを犯罪事実に対する認容(容認)の有無により区別する認容説を前提とすれば、犯罪事実の認識はあるが、この認容がなければ「認識のある過失」であり、犯罪事実の認識がない場合が「認識のない過失」である。
(2)「業務上過失」と「自動車運転過失」 業務上過失とは、社会生活上、一定の法益を侵害する危険性のある活動を反覆・継続して行っている者が、そのような活動に要求される注意を怠った場合であり、これ以外の一般人が注意を怠った場合が通常の過失である。ここにいう「業務」とは仕事や職業とは無関係であるから、遊びのための行為もこれにあたり、また、適法・違法を問わないから、たとえば、無資格の医療行為の場合でも反覆・継続している限り、業務にあたる。
かつては、自動車運転による死傷事故が、業務上過失事犯の典型であり、その大部分を占めていた。しかし、自動車運転による死傷事件が頻発し、大きな社会問題となるなかで、2007年(平成19)、刑法第211条2項として自動車運転過失致死傷罪が新設され、「自動車の運転上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者」は業務上過失致死傷罪より重く処罰できることとなった(ただし、傷害が軽い場合には、情状により、その刑が免除されうる)。自動車(自動二輪車、原動機付自転車も含まれる)運転上の過失があれば足り、業務上過失の場合のように反覆または継続性を要しないから、初めての無免許運転の場合でも本罪にあたりうる。
なお、現行法上「重過失」という概念があるが、これはわずかの注意を払えば結果発生を予見できたのに、この注意を欠いた場合をいう。
[名和鐵郎]
刑法と異なり、民法では一般に、帰責事由としては、故意、過失をほとんど同価値とみて区別しないのが原則である。このようなものとしての過失は、民法の種々の領域において、それぞれの法律効果を生ずる要件となっている。もっとも重要なものとして、不法行為責任成立要件としての過失(民法709条)、および債務不履行責任成立要件としての「責めに帰すべき事由」(債務者の故意、過失および信義則上それと同一視すべき事由)である。
[淡路剛久]
過失はその前提となる注意義務の性質により、抽象的過失と具体的過失とに区別される。抽象的過失とは、抽象的に一般人、普通人、標準人としてなすべき注意、すなわち「善良な管理者の注意」(民法400条、644条ほか)を欠いた場合をいう。ただし、ここにいう一般人、普通人、標準人とは、その人の属する社会的地位や職業などに応じて、それぞれの具体的事例において期待される抽象的合理人のことをさし、ただ単に抽象的一般人をいうのではない。不法行為責任要件としての過失は、まさにこのようなものとしての抽象的過失であるとされており、その意味で本来の過失責任主義は変容を受け、過失の客観化がなされている。そのほか、債務不履行でも原則として抽象的過失が過失の基準となる。
具体的過失とは、その人の現実生活に応じた通常の注意、すなわち「自己の財産に対するのと同一の注意」(同法659条)、「自己のためにするのと同一の注意」(同法827条)、「固有財産におけるのと同一の注意」(同法918条ほか)、などを欠いた場合をいう。具体的過失を過失の基準とすることは、今日では例外となっており、無償受寄者(同法659条)、子の財産管理をなす親権者(同法827条)、承認・放棄未定の相続人(同法918条)にその例がみられる。
[淡路剛久]
過失は注意義務違反の程度に応じて、軽過失と重過失に区別される。軽過失は軽度の注意義務違反であり、重過失は重大な注意義務違反である。この区別は、前に述べた抽象的過失・具体的過失のそれぞれについてなされるから、過失は、理論上は抽象的軽過失、抽象的重過失、具体的軽過失、具体的重過失の四つに区分されることになる。しかし、具体的過失については軽過失だけが問題とされ、具体的重過失を要件とすることは、実際上見当たらない。不法行為責任成立要件としての過失は、(抽象的)軽過失を意味するものとされる。ただし失火責任の場合には、(抽象的)重過失が故意とともに要件とされ、軽過失の場合を除外している(失火ノ責任ニ関スル法律・明治32年法律第40号)。
過失の立証責任は、不法行為の一般原則(民法709条)では被害者側にあるが、第714条以下のいわゆる特殊的不法行為では加害者に転換されている(講学上、中間的責任という)。債務不履行の場合、過失は推定され、債務者側が無過失の立証をしなければならない。
[淡路剛久]
一定の結果の発生を認識すべきであったにもかかわらず,不注意にもこれを認識しなかったり,あるいは,一定の結果の発生を防止すべきであったにもかかわらず,不注意にもこれを防止しなかったことをいう。法律上,過失は法的不利益を課すための要件として機能する。
民法には過失が問題となる制度は少なくないが(動産の善意取得もその一つ),過失とは何か,という疑問が常に発せられて論議されてきたのはもっぱら不法行為にもとづく損害賠償請求権の要件としてであった。すなわち,民法は,不正行為の帰責の原因として故意または過失を要求する過失責任主義を採用したが,これには過失があれば損害賠償責任を負わせられるという意味の外に,過失なければ不法なし,という標語に体現されているように,人の活動の自由を保証するという近代社会の要請を損害賠償法のなかで実現するという役割が含まれている。このように過失責任主義は経済生活ないし企業活動を発展させる強力なバネになるものであったが,被害者救済という点では,欠けるところが大きい。過失責任主義にたいし無過失責任主義がアンチテーゼとして勢いを増してきたのはこのためであるが,過失そのものについても,多発する事故被害者にたいし合理的な保護を与えるためには,その内容が組み替えられる必要がある。過失概念の変容と呼ばれる問題はこのことを指している。
ところで,過失については,まず,過失があるかないかは,だれを基準として判断するのかという問題がある。損害をひきおこした当該加害者の個人的能力を基準とする過失を具体的過失というが,不法行為で要求されるのは,その加害者が属する職業,地位,立場など考慮すれば一般標準人ないし合理人であれば,どのように行為したであろうかということを問うこと,つまり合理人としての注意義務を怠るという問題であり(〈善良ナル管理者ノ注意〉(民法400条)ともいう),抽象的過失と呼ばれるものである。他人が標準的な注意を払っているものと信頼することができてはじめて,人は安心して日常生活を営むことができる。このように,抽象的過失には,被害者の立場に配慮するという考え方が基礎にあるが,理論的には,過失は必ずしもこのように理解されていたわけではなく,また,抽象的過失の内包についても,それに対する理解は多種多様であった。過失概念が不法行為というよりも,民法の重要課題とされてきたのは,それなりの理由があったのである。
過失は,もともとは,故意と同様に,行為者の主観的な意思の態様の問題として理解されるべきものであった。過失とは,結果発生を知るべきであったのに不注意のためそれを知りえないこと,あるいは知りえないままある行為をするという心理状態,という説明は,過失というものにたいする伝統的理解の特色がどこにあったのかを端的に物語っている。しかしながら,過失にたいするこのような理論的位置づけを乗り越えるかたちで,判例は,過失を主観的な意思の態様ではなく,客観的な行為の態様,すなわち,医師は,その危険な業務の性質に照らし,危険防止のために実験上必要とされる最善の注意義務が要求されるというように,損害発生の防止に必要な注意義務を尽くしたかどうかを問題とするようになってきたのである。このように,過失の意味が,内心上のたんなる不注意から,外部的な評価を問題とする客観的義務違反(結果=損害回避義務違反)に転ずることを過失の客観化と呼ぶ。社会的接触が緊密化する一方の今の社会では,われわれ一般市民は,危険な活動や施設から不可避的に損害が発生する可能性に日々さらされているのである。このことを考えてみても,過失概念が客観化せざるをえなかった理由は明らかであるが,過失が客観化すれば,損害を防止すべきであったのに,それをなさなかったことが問われるわけであるから,そこには規範的な判断が介入せざるをえない。その意味で,過失の客観化は,過失の規範化でもあるのであり,それだけ過失には,損害の公平な配分を図る手段としての性格が強くなるわけである。
以上のように,過失は,不法行為では,結果=損害回避義務違反と解されるべきものであるが,結果発生について予見可能性がなければ,このような注意義務を要求するのは妥当でない。したがって,過失ありとの判断には,当然のこととして予見可能性があることが前提とされなければならないが,過失の規範化がすすむと,予見可能性についても,損害発生の危険性を予見すべき調査義務ないし予見義務というような義務を想定することができるのであり,過失の成立範囲は,それだけ事態適合的に拡がる可能性がある。過失の有無について規範的評価を行うにあたり,衡量されるべき主要な要素として挙げられるのは,損害惹起の危険性の大きさ,被侵害利益の重大さ,(加害者側の)社会的に有用な行為に対する評価,などである。被侵害利益の重大さという要素は,法文(民法709条)が権利侵害を過失と並ぶもう一つの柱としていることを考えるならば,まず重視されるべきはこの要素ということになるが,それをどのように衡量すべきかについては,議論の方向性は,必ずしも定かでない。また,過失の客観化,規範化を強調するだけで,過失の問題の大筋は解決されるのかというと,これもまた,即答するのはむずかしい。意思の緊張の欠如を直截に問う伝統的理解には,人は何故責任を追及されるのか,という帰責の根拠を説明する手がかりとなるものが含まれていたのであり,このような側面は,過失の規範化が表舞台に登場した今日でも,完全には払拭しきれるものではないと考えられるからである。これらの問題に対する態度決定がこれからの課題である。
執筆者:藤岡 康宏
刑法では,民事責任の場合とは異なって,故意のない行為は処罰しないのが原則であり,過失犯を処罰するには特別の規定が必要である(刑法38条1項)。刑法典において過失犯が処罰されるのは,失火(116条,117条の2),過失激発物破裂(117条2項,117条の2),過失侵害(122条),過失往来危険(129条),過失致死傷(209~211条)の五つの場合にすぎない。刑法典以外の法律にも数多くの罰則(いわゆる行政刑法)があるが,そこでも過失犯の処罰が明確に定められている例は少ない。ただ,これらの法律は,処罰を本来の目的とするものではないから,過失を罰する旨の明確な規定がなくとも過失犯を処罰しうる場合がある,と考えられている。
(1)〈過失とは何か〉については,考え方に変遷があり,現在でもすべての問題が解明されたとはいえない状況にある。古くは,不注意によって犯罪事実の発生を認識しないことが過失だとされた(予見義務違反としての過失。いわゆる旧過失論で,過失を行為者の責任の問題としてとらえる)。しかし,技術の発達とともに,人身に対する危険を不可避的に含んだ活動が大規模に行われるようになると(高速度交通,大工場経営など),危険な行為であっても,社会的に有用なものは許容されるべきだと考えられるようになった(許された危険)。また,交通事故の場合を中心として,相手方が適切に行動するだろうと信頼してよい状況下であれば,死傷などの結果が発生しても刑事責任を負わないとされるようになった(信頼の原則)。これらの点から出発して,過失一般も,行為者個人が犯罪事実の発生を不注意で認識しなかったという以前に,行為が客観的に妥当なものでなかったことを意味すると考えられるようになった(いわゆる新過失論。過失をまず行為の違法性の問題としてとらえる)。
この行為の客観的不当をどうとらえるかについては,二つの考え方がある。一つは,犯罪的結果の発生が客観的に予見可能であるのに,結果の発生を回避するため通常要求される措置をとらなかったことだとする見解である(結果回避措置義務違反としての過失)。もう一つは,結果発生の客観的予見可能性すなわち危険が大きく,行為のもたらす利益を考慮しても許容されないことだとする見解である。この対立は,第一次的には理論的なものであって,ただちに過失犯処罰の範囲に差異を生じさせるものではない。もっとも,第1の説に立脚して,過失を認める前提として必要な結果発生の客観的予見可能性は,具体的なものでなくともよく,危険を絶無として無視できない程度の不安感があれば足りるとする見解がある(いわゆる危惧感説,新・新過失論)。これは,公害や企業災害などを考慮して,なんらかの不安感があればそれ相応の結果回避措置をとる義務を課すことにより,悲惨な人身の被害を防止しようとして主張されたものである。しかし,刑事責任の範囲をここまで拡張してよいかどうかについては疑問があり,裁判所にも必ずしも受け入れられていない。通常は,客観的予見可能性とは,その種の行為に携わる人々に,行為から結果の発生に至る因果関係が大筋において予見可能であることをいう,と解されている。
(2)刑法上の過失は,次のように分類される。(a)認識なき過失と認識ある過失 犯罪事実が発生するかもしれないと認識していたかどうかによる区別である。通常,犯罪事実の〈認識〉をこえた〈認容〉(犯罪事実が発生してもやむをえないとする意思的態度)がなければ故意は成立しない,と考えられているので,犯罪事実が発生するかもしれないと認識していても,認容がなければ過失だとされる(認識ある過失)。これに対し,犯罪事実が発生するかもしれないという認識さえない場合が〈認識なき過失〉である((1)で述べた過失の実体に関する議論は,〈認識なき過失〉についてのものである)。このように,認容の有無によって故意と過失とを区別する一般的見解に対して,故意の成立要件として認容を不要とする説もあり,それによれば,〈認識ある過失〉というものはないことになる。(b)単純な過失(軽過失),重過失,業務上過失 重過失とは,過失の程度が著しい場合,いいかえれば,ごくわずかな注意をすれば過失が除去されたであろう場合である。業務上過失とは,業務として危険行為に携わる者の過失である。過失の程度は問わない。業務の範囲がどこまで及ぶかは,それぞれの規定ごとに解釈によって決まる(業務上過失致死傷罪における業務は,今日では非常に広く解されている)。刑法典上の過失犯は,すべて単純な過失があれば成立するが,多くの場合,業務上過失,重過失の行為に対して単純な過失より重い刑罰を定めている。他の法律における過失犯には,重過失がなければ成立しないものもある。
→故意
執筆者:中森 喜彦
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…故意・過失に基づいて他人に損害を与えた場合にのみ損害賠償責任を負うという民事責任上の法原則をいう。過失責任主義は,債務不履行責任についても認められるが(民法415条),通常,不法行為責任の法原則として理解される場合が多い(709条)。…
…損害賠償の額を定めるにあたり,加害者に全面的に負担させるのではなく,被害者にも過失があればこれを斟酌して損害の公平な分担を図る制度をいう。不法行為だけでなく債務不履行にも適用されるが,交通事故のように事故の態様が定型化できる場合にはそれに対応した標準的な過失相殺率により事故処理がなされ,実務上も重要な役割を担う制度である。…
…不法行為はこの民事責任を生ぜしめる事実として観念される概念であり,法律の規定(民法709条)との関連において次のように定義される。すなわち不法行為とは,故意または過失によって他人の法上保護に値する利益を侵害して損害を生ぜしめる行為である。法律上は民法の第三編(債権)中に〈不法行為〉という節が置かれており,法典中の位置づけから不法行為は,契約,事務管理および不当利得と並んで,債権の発生原因と解されている。…
※「過失」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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