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喜多川歌麿 きたがわ うたまろ

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美術人名辞典の解説

喜多川歌麿

江戸中・後期の浮世絵師・狂歌師。名は信美、字は豊章、俗称勇助・勇記、号は一窓主裡町斎・燕岱斎・柴屋、狂名は筆の綾丸。鳥山石燕に師事。寛政3年女性美の理想的表現法、美人大首絵を発表、世人の注目を集めた。代表作に「寛政三美人」「たのしきまとひ」等がある。文化3年(1806)歿、53才。

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デジタル大辞泉の解説

きたがわ‐うたまろ〔きたがは‐〕【喜多川歌麿】

[1753~1806]江戸後期の浮世絵師。喜多川派の祖。本姓、北川。初めの号は豊章。独自の美人画、特に大首絵(おおくびえ)を創案、女性の官能的な美を描き出した。狂歌絵本・肉筆画も制作。

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百科事典マイペディアの解説

喜多川歌麿【きたがわうたまろ】

江戸後期の浮世絵師。名は市太郎。鳥山石燕〔1712-1788〕に師事し,豊章と号したが,1782年ころ歌麿と改めた。1784年ころ版元の蔦屋重三郎〔1750-1797〕に見いだされ,新人として売り出された。
→関連項目春画文化文政時代

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朝日日本歴史人物事典の解説

喜多川歌麿

没年:文化3.9.20(1806.10.31)
生年:宝暦3?(1753)
江戸中期の浮世絵師。北川氏で,俗称は市太郎,勇助。別号には石要,木燕などが知られる。住居は江戸の上野忍岡御数奇屋町,日本橋通油町,神田弁慶橋久右衛門町など。絵師鳥山石燕に師事し,安永4(1775)年に北川豊章の号で浮世絵画壇に登場したといわれる。安永期(1772~81)には錦絵が少なく,主に黄表紙洒落本などの挿絵類に筆を染めている。このころの画風は北尾・勝川風が濃厚で,役者や美人などを稚拙な筆法で描いており,いまだ習画期の域を抜け出すには至っていない。 天明初年ごろ歌麿と改号,版元蔦屋重三郎にその才能を見いだされ,蔦屋の専属絵師の形で狂歌絵本や美人錦絵などを世に送り出し,次第に頭角をあらわしてくる。天明期(1781~89)の浮世絵界は鳥居清長全盛期であったが,歌麿は清長をはじめ勝川春章,北尾重政などのさまざまな美人画様式を咀嚼,消化して,独自の女性表現を生み出そうと模索している。一方でこの時期に発表された狂歌絵本は草花や鳥獣虫魚などをモチーフにとりあげたもので,写実に優れた繊細な描写は,この絵師独特のすぐれた感性を伝えている。 天明後期から錦絵の美人風俗画を多く手懸けるようになった歌麿だが,寛政3,4(1791,92)年ごろから美人大首絵という新機軸を打ち出し,これによって歌麿は当代一流の美人絵師の筆頭に躍り出ることになる。これら大首絵は,女性の半身像を大きくとらえ出すものだが,彼女たちの目鼻などがつくる微妙な表情や手指の仕草などを細かく描き分けることによって,女性のさまざまな心理を鋭くえぐり出したもので,従前の美人画とは明らかに異なる歌麿美人画の大成を告げるものであった。これによって寛政年間(1789~1801)の美人画は歌麿の画風に席巻され,歌麿も大判縦絵の美人画群を陸続と制作,発表し続けている。なお,青楼の画家とあだ名されるように,歌麿の美人画では,その大半が吉原や遊女に取材した作品であることも,その作画人生を特徴づける一つの象徴的な事実であると考えられる。 寛政後期には,寛政改革の影響を受けて,その後画題も次第に妖艶な遊女絵中心から母子図や教訓ものなどの比重が重くなっていくが,さらに享和期(1801~04)に入ると画風も一変し,作品は一様に生彩を欠いたものが多くなる。さらに歌麿画の衰退は止まらなかったが,ついに文化1(1804)年,通説に従えば大閤記に取材した錦絵を発表したという科で,筆禍にかかって処罰されたといわれ,ほどなくして失意のうちに世を去っている。なお,歌麿は北斎と並ぶ春画の二大巨頭であること,また肉筆画にもすぐれた手腕をみせていることを,最後に付記しておくべきであろう。

(内藤正人)

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江戸・東京人物辞典の解説

喜多川歌麿

1753〜1806(宝暦3年〜文化3年)【浮世絵師】美人画の代名詞的な浮世絵師。 世界のウタマロ。浮世絵師。喜多川派の祖。当初は黄表紙や洒落本などの挿絵を描く。ついで役者の大首絵を美人画に採用、豊かな女性の表情を捉えた画風により、寛政期、鳥居清長と並ぶ美人画の第一人者となった。肉筆画・春画にもすぐれたが、「八景浮世絵」など名所風景画にも名作を残す。晩年は筆禍事件で手鎖の刑を受けるなど、失意のうちに没した。

出典|財団法人まちみらい千代田
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世界大百科事典 第2版の解説

きたがわうたまろ【喜多川歌麿】

1753?‐1806(宝暦3?‐文化3)
江戸時代の浮世絵師。伝記的に不明な部分が多く,宝暦3年出生は通説。出生地も江戸,川越,京都などの各説あるが,近時は江戸説が有力。本姓は北川氏,名は勇助あるいは市太郎。画号ははじめ豊章,のち歌麿と改め,画姓も喜多川とする。俳名は石要,狂歌師名は筆綾丸(ふでのあやまる)と称した。幼時から町狩野(まちがのう)の鳥山石燕に絵を学び,初作は1775年(安永4)の《四十八手恋所訳》下巻表紙絵。天明元年(1781)の年号のある序文をもつ黄表紙《身貌大通神略縁起》に画工歌麿の名があり,歌麿改名はこのころと思われる。

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大辞林 第三版の解説

きたがわうたまろ【喜多川歌麿】

1753?~1806) 江戸後期の浮世絵師。鳥山石燕せきえんに学ぶ。美人大首絵に独自の様式を展開、多大な人気を博し、後世の美人画に大きな影響を与えた。代表作「当時全盛美人揃」「娘日時計」など。

出典|三省堂
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

喜多川歌麿
きたがわうたまろ

[生]宝暦3(1753)
[没]文化3(1806).9.20. 江戸
江戸時代中・後期の浮世絵師。姓は北川,幼名市太郎,のちに勇助または勇記,号は歌麿のほかに石要,木燕,紫屋など。狩野派の鳥山石燕に師事。初め北川豊章と称し,安永4 (1775) 年頃から役者絵や黄表紙,洒落本などの挿絵を描く。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

喜多川歌麿
きたがわうたまろ
(1753?―1806)

江戸後期の浮世絵師。北川氏。通称勇助あるいは市太郎、画名は初め北川豊章(とよあき)、天明(てんめい)年間(1781~1789)初め歌麿(哥麿、歌麻呂)と改め、画姓も喜多川と表記するようになる。歌麿は当時「うたまる」と読まれた。狂歌をたしなみ、狂歌名を筆綾丸(ふでのあやまる)といった。幼少のときから絵を鳥山石燕(せきえん)に学び、1775年(安永4)刊の富本浄瑠璃正本(とみもとじょうるりしょうほん)『四十八手恋所訳(しじゅうはってこいのしょわけ)』の表紙絵が、浮世絵師としての処女作となる。錦絵(にしきえ)の初作は『芳沢(よしざわ)いろはのすしや娘おさと』で、1777年8月中村座上演の舞台に取材する役者絵であった。これら豊章時代の初期作には勝川春章(しゅんしょう)からの影響が濃厚に表れている。
 天明(てんめい)年間に入って歌麿と改名して以後は、鳥居清長の画風を慕い、美人画家として成長していく。また、新興の版元蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)(蔦重)に才能を認められ、錦絵ばかりでなく、豪華な多色摺(ず)りの狂歌絵本を次々と蔦屋から発表、写実的な作風に磨きをかけた。『画本虫撰(えほんむしえらみ)』(1788刊)、『潮干(しおひ)のつと』『百千鳥(ももちどり)』(以上1789、1790刊)の三部作は、虫、貝、鳥を写生風に描いた色摺りの挿絵をもつ歌麿狂歌絵本の代表作として知られる。
 錦絵における美人画の作画は、清長の群像表現を模倣することから始まるが、やがて対象に近接して、女性の表情の微細な変化を写し留める「大首絵」という形式を創案、寛政(かんせい)年間(1789~1801)初めには独自な作風を確立させた。「雲母摺(きらずり)」や「黄つぶし」の地に女性の柔肌(やわはだ)を美しく浮かび出させるために、ときには朱線を用い、あるいは輪郭線を省略するなど、独創的な表現法をさまざまにくふうした。また、寛政の改革のさなかにあって、彫りの精緻(せいち)や色摺りの度数が制限されたのをかえって逆用し、わずかな色数と限られた線描によって、版画ならではの明快率直な美的効果を実現したものであった。1792、1793年(寛政4、5)ごろの美人大首絵の連作『歌撰恋之部(かせんこいのぶ)』『婦人相学十躰(ふじんそうがくじったい)』などには、各階層にわたる婦女の心理的な深みをも伝える顔貌(がんぼう)表現が尽くされており、また続く1794、1795年の『高名美人六家撰(こうめいびじんろっかせん)』『当時全盛美人揃(とうじぜんせいびじんぞろえ)』などでは、全盛の遊女や茶屋女など実在の美女をモデルに、類型的表現のなかで各人の個性的容貌を微妙に描き分けるなど、単なる美人画家にとどまらぬ肖像画家としての優れた資質をも発揮している。さらに同じころの全身像による連作『青楼十二時(せいろうじゅうにとき)』では、新吉原遊廓(ゆうかく)における遊女の1日の生活模様を活写して、フランスの作家エドモン・ゴンクールが「青楼画家」Le peintre des maisons vertesと名づけた真価を発揮している。
 歌麿の雲母摺大首絵は当初、版元蔦屋重三郎の助言と後援のもとに企画・発表されたものと思われ、その秀作は多く蔦屋から版行されている。歌麿芸術の開花に尽くした蔦重の功績は甚だ大きいが、事実、1797年の蔦重の死を境として、歌麿の作品の質に変化がおこってくる。他の版元からの依頼が増して、多作・乱作が作品の質を低下させた気味もあるが、よき助言者であった蔦重好みの古典的格調を失った結果とも思われる。肉感的描写が進み、デカダンな退廃美を表して、その後の幕末美人画の傾向をすでに確かに予言しているところは、浮世絵界随一の美人画家を自負した歌麿らしい晩年であった。1804年(文化1)『太閤記(たいこうき)』関係の錦絵が幕府にとがめられ、入牢(にゅうろう)、手鎖(てぐさり)の刑を受け、文化(ぶんか)3年9月20日、失意のうちに没した。法名は釈円了教信士、浅草の専光寺(現在は世田谷区に移転)に葬られた。代表作としては前述のほかに、錦絵揃物(そろいもの)に『娘日時計』『北国五色墨(ほっこくごしきずみ)』『教訓親の目鑑(めがね)』、艶本(えんぽん)として『歌まくら』(1788刊)、肉筆画に『更衣美人』(東京・出光(いでみつ)美術館)などが知られる。
 門人に、2代歌麿、月麿(菊麿)、藤麿らがいるが、いずれも亜流画家に終わっている。[小林 忠]
『吉田暎二著『日本の美術23 歌麿』(1972・小学館) ▽楢崎宗重他著『在外秘宝 喜多川歌麿』(1973・学習研究社) ▽菊地貞夫著『浮世絵大系5 歌麿』(1975・集英社) ▽楢崎宗重監修『肉筆浮世絵6 歌麿』(1981・集英社) ▽狩野博幸著『名宝日本の美術22 歌麿』(1981・小学館)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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世界大百科事典内の喜多川歌麿の言及

【浮世絵】より

…清長の美人画像は八頭身の理想的なプロポーションをとり,大判二枚続,三枚続の大画面に展開され,開放的な野外風景の中で,群像として知的に構成される。ついで寛政年間(1789‐1801)には喜多川歌麿が,現実の遊女や町娘,あるいは身分,性状を特定された女性を半身像(大首絵(おおくびえ))に描き,微妙な心理や感情の表現に新風を開いている。浮世絵美人画は,これら春信,清長,歌麿の3巨匠によって成熟の頂点に達した感があり,その余の画家は3者の個性的な様式にわずかな変容を加えたにすぎない。…

【鳥山石燕】より

…船月堂,零陵洞,月窓などと号した。喜多川歌麿の絵画上の師であり,同時に養父的存在でもあった。彼の絵本《石燕画譜》(1774)は木版ぼかし技法を用いた最も初期の例で,《塵塚談》によれば肉筆の役者似顔絵の創始者にも擬せられるなど,浮世絵版画の技法やジャンルの発展に重要な位置を占める。…

※「喜多川歌麿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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