松平武元(読み)まつだいら・たけちか

朝日日本歴史人物事典 「松平武元」の解説

松平武元

没年:安永8.7.25(1779.9.5)
生年:正徳3(1713)
江戸中期の幕府老中。幼名は源之進,右近将監と称す。松平播磨守頼明の次男で,享保13(1728)年に松平(越智)武雅の臨終養子となり陸奥棚倉5万4000石を領した。元文4(1739)年に奏者番,延享1(1744)年に寺社奉行を兼ねた。8代将軍徳川吉宗は武元の人物を見込んで,同2年の隠退に際して武元を特に招き,後事を託し将軍家重を輔翼すべきことを懇命した。3年5月に西丸老中に任ぜられ,城地を館林に移された。翌4年9月に老中に補せられ,それより家重,家治将軍の下で幕閣にあって重きをなした。田沼意次もまた武元存命中はこれに敬意を示して,あえて威権を振るうことがなかった。明和1(1764)年に老中首座に進み同6年には加増を受けて6万1000石を給された。

(笠谷和比古)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松平武元」の解説

松平武元 まつだいら-たけちか

1717*-1779 江戸時代中期の大名
享保(きょうほう)元年12月28日生まれ。常陸(ひたち)(茨城県)府中藩主松平頼明(よりあきら)の次男。松平武雅(たけまさ)の養子となり,享保13年上野(こうずけ)(群馬県)館林(たてばやし)藩主松平(越智(おち))家3代。家督をつぐと同時に陸奥(むつ)棚倉(福島県)に移封(いほう)。奏者番,寺社奉行をへて,延享3年西丸老中にすすみ,館林にもどる。4年老中となり,明和元年老中首座。6年6万1000石に加増。安永8年7月20日死去。64歳。通称は源之進。右近将監。

松平武元 まつだいら-たけもと

まつだいら-たけちか

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「松平武元」の解説

松平武元 (まつだいらたけちか)

生年月日:1713年12月28日
江戸時代中期の大名;老中
1779年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の松平武元の言及

【館林藩】より

…資晴は34年大坂城代になったため所領を大坂周辺に移され,館林城付領は一時幕領となったが,子資俊のとき旧領に復し,ついで46年(延享3)遠江掛川に転じた。代わって松平武元が再入封し,武元は将軍家宣,家治2代にわたり老中として重きをなし,6万1000石に加封されたが,このあと2代を経て1836年(天保7)石見浜田に移り,奥州棚倉の井上正春が代わった。しかしこれも45年(弘化2)浜松に転じ,出羽山形から秋元志朝(ゆきとも)が6万石で入封した。…

【伝馬騒動】より

…幕府は一揆鎮圧を町奉行,関東郡代,代官,火付盗賊改,騒動近辺の大名・旗本などに命じ,また江戸では諸門を固めて防衛体制を強化した。一方29日,老中松平武元(たけちか)は勘定吟味役関東郡代兼帯伊奈半左衛門忠宥(ただおき)に命じ,増助郷中止を触れ一揆勢の江戸進撃を回避した。要求を貫徹した一揆勢は,一転して年末より翌65年正月にかけて入間,大里,高麗,比企,足立の各郡下三十数人の増助郷計画に参加した出願人である名主層,地主層,在郷商人層を壊滅的に打ちこわした。…

※「松平武元」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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