福島県南東部,東白川郡の町。人口1万5062(2010)。阿武隈高地と八溝山地にはさまれた久慈川上流域を占め,南西端にある八溝山(1022m)は,福島・茨城・栃木3県の県境となっている。町域の大部分が山林で,久慈川と阿武隈川の支流社川の流域にわずかに平地が広がる。中心集落の棚倉は久慈川の段丘上にあり,1622年(元和8)丹羽長重が棚倉城を築いて以降,城下町として栄えた。現在も郡の中心地で,JR水郡線,国道118号線が郡山と水戸を結んでいる。米と特産品のコンニャク芋,トマト,イチゴなどの栽培が盛んで,八溝国有林は奥久慈林業の中心となっている。製材業のほか,近年は縫製業,電子部品工場などの企業も進出している。八槻(やつき)と馬場には都都古別(つつこわけ)神社が鎮座している。
執筆者:佐藤 裕治
陸奥国白川郡の城下町。江戸初期は奥州最南端の押さえとして重視されたが,中期以降は譜代大名の城下となる。戦国時代は常陸の佐竹氏の領域で赤舘に出城が置かれていたが,1622年(元和8)丹羽長重が,赤舘のふもとの台地にあった近津明神を遷宮して,その跡地に築城し,その周辺に侍町をつくり,近津明神の門前をなしていた伊野村を古町,新町として町人町を形成した。しかし丹羽氏は建設途上で27年(寛永4)転封されたので,本格的な城下の建設は代わって入封した内藤信照によって行われた。1729年(享保14)の町方の戸数は435,人口1436であった。常陸水戸と奥州道中を結ぶ大田街道を扼する城下町であったが,内藤氏の移封後は,棚倉藩主の交替が激しく,安定した町政は行われず,しかもたびたび大火に見舞われたため,しだいに衰微していった。1866年(慶応2)入封した阿部氏(10万石)は,戊辰戦争に際し征討軍の攻撃を受け,落城した。
→棚倉藩
執筆者:青木 美智男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
福島県中通り南部、東白川郡にある町。1889年(明治22)町制施行。1955年(昭和30)社川(やしろがわ)村、高野村、近津(ちかつ)山岡組合村と合併。JR水郡線、国道118号、289号が通じる。町域は八溝山地(やみぞさんち)、阿武隈高地(あぶくまこうち)、八溝山地に発する久慈(くじ)川低地からなる。また阿武隈川の支流社川が流れ、逆川(さかさがわ)地区は久慈川、阿武隈川の分水界をなす。1622年(元和8)丹羽長重(にわながしげ)の入部以来棚倉藩の城下となったが、8家16代の藩主(5万~10万石)が交代した。米作やコンニャク、果樹、野菜栽培など農業が主体であり、奥久慈林業地帯に含まれ、良材を産する。また、弱電、食品、縫製などの工業もおこりつつある。式内社の棚倉、八槻(やつき)の両都々古別神社(つつこわけじんじゃ)、棚倉城(亀ヶ城)跡、赤館(あかだて)城跡などがある。八槻都々古別神社の御田植祭は、2004年(平成16)に国の重要無形民俗文化財に指定された。面積159.93平方キロメートル、人口1万3343(2020)。
[原田 榮]
『『棚倉町史』全9巻(1977~1983・棚倉町)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
《〈和〉doctor+yellow》新幹線の区間を走行しながら線路状態などを点検する車両。監視カメラやレーザー式センサーを備え、時速250キロ以上で走行することができる。名称は、車体が黄色(イエロー)...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新