松本城下(読み)まつもとじようか

日本歴史地名大系 「松本城下」の解説

松本城下
まつもとじようか

[現在地名]松本市北深志きたふかし一―三丁目・あさひ一丁目・女鳥羽めとば一―三丁目・城東じようとう一―二丁目・丸の内まるのうち開智かいち一―三丁目・城西じようせい二丁目・大手おおて二―四丁目・中央ちゆうおう二―三丁目・深志二―三丁目・本庄ほんじよう一丁目

女鳥羽めとば川は城下町の東方清水しみず(現清水一丁目)の地から西に折れ、急にゆるやかな流れとなって町の中心部を南北に割って流れる。大手橋(現千歳せんざい橋)から北が松本城の城地で、その中に松本城と武家屋敷がある。武家屋敷は城内三の丸とその周辺、更にその北方にのびている。

〔城下の形成〕

城地の草創は古代末、ここにあった国府在庁の官人犬甘いぬかい(飼)氏の館に始まると推定される。中世小笠原貞宗が当国の守護としてこの地に進出し、井川に館を構えて以来、その一連の構えの一つとして小笠原氏の分系島立氏が平城として築城整備し、中世末戦国時代には小笠原氏の同族坂西氏がこれを領した。この時城地が改修され、三〇年間以上の武田氏占領下で二度目の城地拡張が行われた。武田晴信は天文一九年(一五五〇)小笠原氏の本城林大はやしおお城はじめ周辺の山城を落すと、深志ふかし城のみを武田流の城に取りたて、他の城砦を破壊した。「高白斎記」によれば深志城占領後直ちに鍬立てし、深志城の総普請を諸将に命じている。この頃は城地のみで城下町の形成は十分に行われず、深志城付近にあった町家の中心が女鳥羽川以南本町の地に移動しつつあったと思われる。

天正一〇年(一五八二)七月小笠原貞慶が深志城を回復する。「信府統記」に貞慶が「外郭ヲ構ヘ縄張アリシヨリ」とあり、本城としての諸施設、ほん町・なか町・ひがし町のいわゆる親町の町筋がつくられ、現三の丸の東北部の生安しようあん寺などが本町に移された。これらの具体的な記録資料は残っていない。文禄・慶長(一五九二―一六一五)の頃、石川氏は松本城本丸に天守を築き、本丸・二の丸の石垣を完備し城内の建物(本丸御殿・古山寺御殿)をつくり、城下町の整備に努めた。「信府統記」に「康昌(数正)当城二ノ曲輪ニ慰所ヲ作ル、箇三寺こさんじト号ス、今ノ古山寺ト云フ是ナリ、城普請ヲ催ストイヘドモ、未ダ成ラズ、康長ハ父康昌ノ企テタル城普請ヲ継ギ、天守ヲ建テ、総堀ヲ浚ヒ、幅ヲ広クシ、岸ヲ高クシテ石垣ヲ築キ、渡リ矢倉ヲ作ル、黒門・太鼓門ノ門楼ヲ立テ、三ノ曲輪ノ大城戸五ケ所共ニ門楼ヲ作ル、其他矢倉惣塀大方建ツ、城内ノ屋形修造アリ、郭内ノ士屋敷ヲ建続ケ、郭外ニモ士屋鋪ヲ割ル、片端ナドコノ時出来ルト云フ、又枝町ノ家ヲ続ケ、並ヲ能シ、宮村ノ辺ニ歩行士ノ屋鋪ヲ造ル」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報