板持村(読み)いたもちむら

日本歴史地名大系 「板持村」の解説

板持村
いたもちむら

[現在地名]前原市板持

志登しと村の東に位置し、中央を瑞梅寺ずいばいじ川が北東流する。南北池田いけだ村と元岡もとおか(現福岡市西区)を結ぶ道が通る。中世板持庄が成立。天正一九年(一五九一)三月二三日の志摩郡惣田数付(朱雀家文書)によれば田七三町三段余・畠四町九段余。小早川時代の指出前之帳では田五五町四反余(分米八五七石余)・畠四町三反余(分大豆三〇石余)。慶長三年(一五九八)分の志摩郡物成帳(朱雀家文書)では高八八八石余、物成四一五石余(うち大豆二一石余)。同七年の検地高一千七八九石余(慶長石高帳)。田圃志の元禄五年(一六九二)の高、石高書上帳案の郡帳高も同じ。福岡藩領。元和九年(一六二三)田畠六六〇石が黒田長政次男黒田政冬の知行地となる。寛永二年(一六二五)政冬の没後、当村の一千石が栗山大膳の知行地、残りは蔵入地となる。


板持村
いたもちむら

[現在地名]富田林市西板持にしいたもち

錦部にしごり郡に属し、西は石川を挟んで甲田こうだ村、東は石川の支流佐備さび川で石川郡板持村に対する。石川郡の板持村を東板持村、当村を西板持村とよぶ。正平三年(一三四八)三月一八日から一九日にかけて、佐美谷さびたに口で高師泰軍と楠木方の合戦があったが(同七年六月日付「和田助氏軍忠状」和田文書)、この合戦場は石川と佐備川の合流点に近い当地とも考えられる。

文禄三年(一五九四)一一月の板茂村御検地帳(土井禎昭家文書)によると高七二七石余。


板持村
いたもちむら

[現在地名]益田市愛栄町あさかちよう

高津川の支流二俣ふたまた川に流入する板持川流域に位置し、東は二俣村(現日原町)、南は鹿谷しのたに(現同上)、西はわな田原たばら村、北は柏原かしばら村。地名は糯に由来し、大炊寮御稲田という(石見私記)。江戸時代の支配の変遷は持石もちいし村と同じ。古高一二八石余、寛永一四年(一六三七)の検地高二一六石余(万手鑑)。延享年間(一七四四―四八)製蝋が津和野藩直営とされ、文化七年(一八一〇)の櫨の実の割当ては、黒谷組で一万七四貫もあった(益田市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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