林忠正(読み)はやし・ただまさ

朝日日本歴史人物事典 「林忠正」の解説

林忠正

没年:明治39.4.10(1906)
生年嘉永6.11.7(1853.12.7)
明治期の美術商長崎言定の次男として越中(富山県)高岡に生まれる。明治3(1870)年富山藩士林太仲の養嗣子となり上京,大学南校に学ぶ。11年起立工商会社社員として渡仏,パリ万博の仕事に携わる。17年パリに美術商を開業,浮世絵など日本・東洋美術品を扱う。パリを中心にゴンクール印象派の画家たちと広く交友,当時盛行したジャポニスムに,日本美術紹介者として重要な役割を果たした。1900年パリ万博参加に際しては,臨時博覧会事務官長となる。35年商店を閉じ,翌年にかけ売り立てを行う。39年帰国し同年東京で没。

(三輪英夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「林忠正」の解説

林忠正 はやし-ただまさ

1853-1906 明治時代の美術商。
嘉永(かえい)6年11月7日生まれ。明治11年パリ万国博覧会の仕事でフランスにわたる。パリで美術品店をひらき,浮世絵など日本美術を紹介する。また印象派の絵画を日本にもたらした。明治39年4月10日死去。54歳。越中(富山県)出身。東京大学中退。旧姓は長崎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の林忠正の言及

【印象主義】より

…特に,明るい色彩の使用と光に対する強い関心は,アカデミズムを通しての折衷的印象主義ではあったが,日本では清新なものとして受け取られた。フランスの印象派の作品が紹介されたのは,93年の明治美術会展で,日本美術のフランスへの紹介者でまた西洋美術のコレクターであった林忠正(1853‐1906)のコレクションのなかにブーダン,シスレーなどの作品があった。しかし,それらはあまり大きな反響を呼ばず,むしろ黒田たちの折衷主義の方が迎えられたのである。…

【ジャポニスム】より

…浮世絵版画をはじめ,陶器,漆器,ブロンズ製置物,染織品,象牙細工,そのほか櫛(くし),簪(かんざし)などの女性装身具や,各種工芸品の需要がふえ,当然ジャポネズリーを扱う業者も多くなった。日本人では,78年のパリ万国博日本館展示にかかわった起立工商会社の若井兼三郎(わかいかねさぶろう)(?‐1908),林忠正(1853‐1906)が知られる。とくに林忠正はゴンクールをはじめとしてすぐれたジャポニザンたちの研究を助け,日本美術の正しい理解を促した。…

【フランス】より

…渡六之介はパリ・コミューンの経験を《巴里籠城記》に残している。 1900年前後のいわゆるベル・エポックのフランスは日本美術に関心を示したが,画商の林忠正(1853‐1906)は1867年のパリ万国博覧会で浮世絵に開眼した作家のゴンクールと協力しながら,1890年から1901年の11年間に版画15万6487枚,絵本類9708冊,掛物846を日本から送らせ,売りさばいた。 フランス文学の邦訳は1878年川島忠之助のベルヌ《80日間世界一周》に始まり,翌年フェヌロンの《テレマックの冒険》を宮島春松が訳し,さらにはデュマの《五九節操史》,ユゴー,ゾラ,ドーデ,モーパッサンらの作品が翻訳され,フランス文学愛好の基を築いた。…

※「林忠正」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android