日本大百科全書(ニッポニカ) 「日本美術」の意味・わかりやすい解説
日本美術
にほんびじゅつ
日本美術は、先史時代から歴史時代に入って中国や朝鮮の美術を吸収し、その動向を反映しながら、独自の美の世界を展開・創造してきた。これは、日本人のもつ優れた美的感覚と、恵まれた自然環境に負うところが大きい。近世以降、海外から、限られた分野ではあるが、日本美術に関心が寄せられてきたが、いまや世界のなかで日本美術の全体像をとらえようとする動きがあり、その特質および位置づけについて深い理解がなされるようになった。こうした広い視点にたって日本美術をとらえることは今後の重要な課題となろうが、ここでは、日本美術の古代から現代に至る流れを概観し、その展開の軌跡を、彫刻、絵画、工芸などに重点を置いて述べる。なお、「書」「陶芸」「染織」「庭園」「日本建築」「神社建築」「仏教建築」「日本刀」「仏像」「仏画」などについては、それぞれの項目に詳述してある。
[永井信一]
先史時代
縄文時代、人々は竪穴(たてあな)住居に住み、生活用具としての土器、呪術(じゅじゅつ)用とみられる土面や土偶を制作した。土偶の多くは女性をかたどったもので、これらのきわめて原始的な彫刻のなかに造形感覚の萌芽(ほうが)をみることができる。
紀元前400年ころから弥生(やよい)時代に移るが、このころから大陸文化の影響が、初めは緩慢に、しだいに急速に全国に広まっていった。大陸から稲作が伝わり、農耕を中心とした生活が営まれるようになり、土器には縄文的な粗豪性や生命力の強さという特色が失われ、穏やかな造形へと変容を遂げていく。
北九州に大陸から青銅器、鉄器などが伝わると、日本でも銅剣、銅矛(どうぼこ)、銅鏡などが模作されたが、日本独特の銅鐸(どうたく)もつくられた。銅鐸は出土品から推して近畿地方を中心につくられたと思われるが、用途はさだかではない。しかし、袈裟襷(けさだすき)文や流水文、トンボ・亀(かめ)・水鳥などの小動物、狩猟や舞踊などの人物の絵画的表現は、弥生時代の鋳造技術の水準の高さを示している。
古墳時代、一般人はまだ竪穴住居が多かったが、支配者層は高床式住居で、切妻や入母屋(いりもや)などの屋根に鰹木(かつおぎ)をのせたものが権威の象徴とされた。今日まで古式を伝える伊勢(いせ)神宮、出雲(いずも)大社などの神社建築は、こうした古墳時代の建築様式を今日に伝えるものである。また、古墳の副葬品として、粘土を輪積みにした素焼の彫刻や埴輪(はにわ)がつくられた。埴輪には家屋や生活用具、人物、動物などがあるが、いずれも素朴な表現ながら対象の特徴をよくとらえており、文献の乏しい当時の生活を伝える貴重な資料である。また九州地方の装飾古墳の原始的絵画に、大陸壁画の影響がうかがえる。
古墳時代に目覚ましい発展をみせたのは金属工芸品で、武器、武具、装身具などに彫金の技法がみられるようになる。竜、双鳳、唐草(からくさ)文、パルメット文など外来の模様が、透(すかし)彫りや毛彫りで施されている。金銀を他の金属地にはめ込む象眼(ぞうがん)の技法や、鍍金(めっき)の技術も進み、古墳時代には金工の基本的な技術はほとんど日本に定着したと考えられる。
[永井信一]
飛鳥・白鳳時代
美術史では広義の飛鳥(あすか)時代を二つに分けて、仏教公伝から大化改新(645)までを飛鳥時代、それ以後平城遷都の710年(和銅3)までを白鳳(はくほう)時代という。仏教伝来によって経典とともに易学、暦、医学の博士(はかせ)たち、僧、造仏工、造寺工、瓦(かわら)工、画工らが百済(くだら)から献上され、聖徳太子という偉大な指導者の出現で、仏教美術は6世紀から7世紀にかけて飛躍的な発展を遂げるが、その際、これら技術者が果たした役割は大きい。
[永井信一]
彫刻
大寺院の造営が相次いで、仏像の需要が増し、当初は大陸の技法と様式を受け継いで制作が進められた。制作年の判明している最古の仏像は飛鳥寺の釈迦如来坐像(しゃかにょらいざぞう)(606)で、鎌倉時代雷火によって当初のおもかげを失ったが、止利(とり)仏師の作と伝えられる。続いて古い在銘の作品は法隆寺金堂の釈迦三尊像(623)で、これも飛鳥寺と同じ金銅仏で、止利仏師によってつくられた。止利様式といわれるその特徴は、正面観照性、杏仁(きょうにん)(アーモンドの実)形の目、仰月様の唇、左右相称の衣文(えもん)などの点で、この形式の流れをくむものに、法隆寺夢殿の本尊救世観音(ぐぜかんのん)像がある。これはクスノキの一木(いちぼく)造で、日本の木彫像として最古の遺品である。同じ木彫像でも、7世紀中ごろの作とみられる法隆寺の百済観音は表面に乾漆(かんしつ)を盛り、全体に柔らかみを増している。前述の金堂釈迦三尊像や救世観音像にみられる正面性と左右相称性の強調から一歩進んで側面性も重視し、自然な人体表現へと向かっていく過程をこの百済観音は示している。
飛鳥時代に流行した仏像に半跏思惟(はんかしい)像がある。朝鮮半島では6世紀後半に弥勒(みろく)信仰が盛んになり、金銅製や石造の弥勒像がつくられたが、その影響で日本にも優れた作品がいくつかある。京都・広隆寺の弥勒半跏思惟像は、木彫ではクスノキが一般的であった当時としては珍しいアカマツを用いた例だが、これとよく似た金銅像が韓国にあり、朝鮮から渡来した百済の仏師の手になったと考えられる。同様のポーズをとる奈良・中宮寺の菩薩(ぼさつ)半跏像では、止利様式とも半島風とも異なる、独自の柔らかな趣(おもむき)が特色である。
白鳳期になると、皇族、豪族による造寺、造仏はさらに盛んになり、藤原京の造営、薬師寺の創建など仏教美術は前代に勝る躍進を遂げた。対外的には朝鮮半島との交流がますます密になり、遣唐使の派遣に伴って直接大陸からの影響を受け、白鳳という名の響きにふさわしい明朗闊達(かったつ)な作風を展開していく。技法的には、奈良・當麻(たいま)寺弥勒仏のような塑像がつくられ、また雌型の原型からつくる塼仏(せんぶつ)や、原型に薄い銅板を当てて打ち出す押出し仏(ぶつ)も現れた。これら白鳳期の仏像には中国初唐の影響を受けて、ふくよかな肉体と清純な表情をもつものが多く、金銅仏にもその傾向がみられる。法隆寺の夢違(ゆめちがい)観音像はその好例で、白鳳後期の7世紀末ごろの作と考えられ、人間味ある童顔、流麗な衣文の表出はこの時代の特色を示している。またこの時代、畿内(きない)を遠く離れた地方にまで仏教が伝播(でんぱ)し、東国に至るまでその遺品がみられる。
[永井信一]
絵画
飛鳥時代の絵画では、日本最古の芸術絵画作品ともいうべき法隆寺の玉虫厨子(たまむしずし)の板絵(捨身飼虎(しゃしんしこ)図・施身問偈(せしんもんげ)図)がある。これは宮殿様の厨子の意匠として描かれたもので、近年、敦煌莫高窟(とんこうばっこうくつ)の壁画が紹介されて、この板絵を理解するうえでの資料が豊富になった。6、7世紀の西域(せいいき)では本生譚(ほんしょうたん)や仏伝を主題とした仏教絵画が盛んに描かれたが、玉虫厨子板絵もこうした大陸の風潮を反映したものであろう。しかし、彼我の画様には大きな隔たりがあり、莫高窟の描法が粗放で力強いのに対し、板絵のほうは精美で深い味わいを備えている。縦長の場面に連続する3場面でリズミカルに描き、それに細やかな自然描写を配し、日本の絵画が自然と深いかかわりをもちながら展開していくことを示している。白鳳絵画も遺品は少ないが、法隆寺金堂壁画と、1972年(昭和47)発見の高松塚古墳壁画が残されている。法隆寺金堂壁画は1949年(昭和24)1月の火災で被災したが、小壁は難を免れた。壁画は鉄線描と称する肥痩(ひそう)のない弾力性のある朱の描線で描かれ、隈取(くまどり)を施して肉体の量感を表し、的確な技法と明晰(めいせき)な構図で、理想的な人間像としての仏像を描いている。これに対して高松塚古墳壁画は仏画ではなく、世俗的な主題を扱っていて注目される。男女人物の風俗描写などの色面処理や群像構成に、後のやまと絵の源流を思わせるものがある。
[永井信一]
工芸
紀年銘を有する飛鳥時代の金工品としては、法隆寺献納宝物の甲寅年(こういんのとし)(594)銘の金銅光背、白鳳期では戊戌(ぼじゅつ)年(698)銘の日本最古の京都・妙心寺の梵鐘(ぼんしょう)や、福岡・観世音寺の梵鐘、彫金では法隆寺の金銅透彫灌頂幡(すかしぼりかんじょうばん)がある。灌頂幡は荘厳(しょうごん)具の一種で、鍍金を施した金属板に、天衣を翻して舞う飛天を透彫りにし、飛雲やパルメット文をあしらい、意匠・技巧ともに優れている。
染織では中宮寺の天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)(622)の残欠がある。聖徳太子の霊を慰めるために刺しゅうされたもので、当時の風俗を写したとみられる点が興味深い。
[永井信一]
奈良時代
美術史では天平(てんぴょう)時代ともいい、710年(和銅3)の平城京遷都から794年(延暦13)の平安遷都までの約80年間をいう。この時代は律令(りつりょう)制度が確立し、官僚機構が整備された。とくに聖武(しょうむ)天皇の天平期(729~749)には遣唐使によって盛唐の文化が伝えられ、これを受けて日本の風土に根づいた美術があらゆる分野で大輪の花を咲かせた。752年(天平勝宝4)の東大寺の大仏開眼はまさにこの時代の象徴といえよう。
[永井信一]
彫刻
平城京の宮殿や諸官衙(かんが)の建設が一段落した741年(天平13)、聖武天皇は詔勅を発して全国に国分寺・国分尼寺を建立させた。そして745年には東大寺大伽藍(がらん)の造営が始まっている。これによって造仏界は活況を呈し、造東大寺司のような官営の造仏工房ができ、習熟した工人が優れた指導者のもとで腕を振るい、天平期に日本の彫刻は古典的完成をみた。しかし、国銅を尽くしたといわれる最高最大の記念碑的存在であった当初の大仏は、のちに兵火によって失われ、わずかに台座の蓮弁(れんべん)に線刻された蓮華蔵(れんげぞう)世界の仏たちにおもかげをしのぶのみである。
現存する天平彫刻の代表作としては、法隆寺五重塔塑像群、薬師寺金堂薬師三尊像、興福寺十大弟子像6体、同八部衆像などがある。このうち734年(天平6)の捻塑(ねんそ)性を生かした脱乾漆造の十大弟子像、八部衆像は、法隆寺五重塔塑像群よりもさらに日本人の好みにあった親しみやすい顔だちで、微妙な心理を表現している。脱乾漆像は塑土で大体の形をつくり、麻布を漆(うるし)で貼(は)り重ねて固定させてから内部の塑土を掻(か)き出した、いわば張り子状の像で、さらに漆で表面を整え独特の柔らかみを出している。ほかにこの方法によるものに、東大寺法華(ほっけ)堂の不空羂索(ふくうけんじゃく)観音立像と脇侍(きょうじ)の諸像、唐招提寺(とうしょうだいじ)の鑑真(がんじん)像などがある。また塑像には、東大寺法華堂の執金剛神(しっこんごうしん)像と日光(にっこう)・月光(がっこう)菩薩立像、東大寺戒壇院の四天王像、新薬師寺の十二神将像などがあり、いずれも高い水準を示す作品である。
天平中期には木彫が復活し、唐招提寺の伝薬師如来像や大安(だいあん)寺の楊柳(ようりゅう)観音像など一群の作品は、堂々とした体躯(たいく)や変化の多い衣文に、前期までの穏やかな作風とは異なる重量感や運動感が表現されている。8世紀後半になると、木彫と乾漆の折衷法ともいうべき木心乾漆像が流行するが、その代表作に奈良・聖林(しょうりん)寺十一面観音像や、唐招提寺千手(せんじゅ)観音像がある。
[永井信一]
絵画
當麻(たいま)寺の観無量寿経変相図(當麻曼荼羅(まんだら))は阿弥陀(あみだ)浄土を表した綴織(つづれおり)で、もとは4メートル近い大きさであったが、画面に奥行や遠近感を取り入れ、天平絵画と唐朝絵画の関係を示している。
薬師寺の吉祥天(きちじょうてん)像は、画面は小さいが、繊細な線描と精巧な彩色による、仏画の形を借りた唐朝風美人風俗画といえる。仏画のみならず、室内装飾のための絵画にも唐風の影響がみられる。正倉院宝物には調度や楽器、工芸品に描かれた絵が多数あり、なかには大陸からの舶載品も少なくない。鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)は近年の調査から日本製ということが確かめられたが、もとは鳥の羽が貼ってあったものがはがれ、下絵の墨線が現れて淡彩墨画の美人画を見るような趣がある。同じ正倉院宝物の麻布(まふ)菩薩図は雲上の菩薩像で、天衣の翻る躍動感が描かれている。これらは中国唐代絵画の様式を摂取しながらも、習熟した優れた技術によって、より日本的な絵画へ発展する素地が準備されていることを示している。
[永井信一]
工芸
天平時代を代表する工芸品は正倉院宝物がその中心を占めている。なかには唐から請来(しょうらい)されたものもあるが、大部分は日本でつくられたものである。金工品では鳥獣花背(かはい)八角鏡、銅製および銀の薫炉(くんろ)、金銀花形合子(ごうす)などが有名で、透彫りや蹴(けり)彫りの技法を用いて華麗な意匠を生かしている。仏具では幡(ばん)、華鬘(けまん)、鉢、水瓶(すいびょう)、柄(え)香炉などがある。また大仏開眼時につくられた大仏殿前の金銅八角灯籠(とうろう)も優れた鋳造品である。漆工も唐の影響を受け長足の進歩をみせ、平文(ひょうもん)、螺鈿(らでん)、密陀絵(みつだえ)、金銀絵、蒔絵(まきえ)などの技術を駆使した品がつくられた。陶芸では唐三彩に倣った三彩、二彩のいわゆる奈良三彩とよばれる施釉(せゆう)陶がつくられている。
染織品は法隆寺や正倉院に伝世したものがほとんどである。裂(きれ)類のなかには大陸製のものも含まれており、多くは8世紀前半につくられたもので、美術史上の価値はきわめて高い。当時の調庸布として織られ、土地や人名を記したものもある。織では平絹(ひらぎぬ)、綾(あや)、羅(ら)、経錦(たてにしき)、緯錦(よこにしき)、綴(つづれ)、染では﨟纈(ろうけち)、きょう纈(きょうけち)、纐纈(こうけち)の3種と摺絵(すりえ)、描絵があり、基本的な染織技術はほぼこの時期に出そろったとみてよい。
[永井信一]
平安時代
平安遷都(794)から平家滅亡(1185)まで約400年にわたる貴族文化の時代である。この時期、空海が中国からもたらした真言(しんごん)密教、最澄(さいちょう)の天台密教は、仏教界のみならず美術の分野にも大きな波紋を投げかけ、遣唐使の廃止によって大陸からの文化移入がとだえると、それまで蓄積されたエネルギーによって自力で独自の文化を形成し、王朝文化の花を咲かせた。しかし、1180年(治承4)の南都の火災は豪華優艶(ゆうえん)な貴族文化を葬り、それはまた古代の終焉(しゅうえん)を告げるものでもあった。
[永井信一]
彫刻
彫刻では平安前期を弘仁(こうにん)・貞観(じょうがん)様式、後期を藤原様式とよぶが、弘仁期(810~824)には、天平期に完成した古典様式に対する反古典的表現が目だつ。調和のとれた外形美よりも、人間の内面の精神と宗教性を追求し、ときには大胆なデフォルメを伴った超人間的な表現を打ち出そうとする。その結果、翻波(ほんぱ)式衣文や、多面・多眼・多臂(たひ)の密教像や、唐招提寺の不空羂索(けんじゃく)観音像のように、見る者を圧倒する重量感をもつ仏像がつくられた。その作風は重厚かつたくましい生命感にあふれている。材質の点でも変化がおこった。金銅仏や、専門の技量を要する塑像、高価な漆を多量に必要とする脱乾漆像の制作は退潮し、木彫像が主体となってくる。奈良・新薬師寺の薬師如来像、橘(たちばな)寺日羅(にちら)像、法華寺十一面観音像、京都・神護(じんご)寺薬師如来像などがそれであり、とくに法華寺、神護寺の両像は木肌の美をそのまま生かしている。
貞観期(859~877)に入ると、真言密教、天台密教の開立による密教像が多くなり、彩色された絵画的要素の多い、神秘的な仏像がつくられるようになった。大阪・観心寺の如意輪観音像はその例である。この時期になると弘仁期の力強さは消え、翻波式衣文も形式化し、やや伏し目がちの藤原式の顔だちになる。奈良・室生(むろう)寺金堂釈迦像ほかの諸像がそれである。9世紀には仏教が地方に広まり、造寺・造仏も盛んになった結果、福島・勝常寺薬師三尊像、岩手・黒石(こくせき)寺薬師像(貞観4年の銘がある)のように、むしろ地方の仏像に生気あふれる優品が多い。
仏像彫刻の影響で神像彫刻もつくられた。薬師寺の僧形八幡(そうぎょうはちまん)・神功皇后(じんぐうこうごう)・仲津姫(なかつひめ)の三神像、京都・松尾(まつのお)大社の男女神像はいずれも寛平(かんぴょう)期(889~898)の作品と考えられている。
10世紀後半になると藤原摂関家の勢力は強大になり、彼らの発願による造寺・造仏が増すにつれ、優れた仏師は自らの工房をもち、多くの工人を従えて仏像をつくった。定朝(じょうちょう)はこの藤原時代を代表する仏師である。宇治平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)は藤原頼通(よりみち)の発願により1053年(天喜1)に建てられたが、この本尊の阿弥陀(あみだ)如来像は寄木(よせぎ)造で定朝の作である。洗練され均整のとれた造形、円満な相好はよくこの時代の好みを表し、堂内の長押(なげし)には割矧(わりはぎ)造による四十余体の雲中供養菩薩像がかけられた。定朝の系統は円派、院派、奈良仏師などの諸派に分かれていく。
藤原期の末に奈良に天才的な仏師が現れ、1176年(安元2)奈良・円成(えんじょう)寺の大日(だいにち)如来像をつくった。すなわち、若き日の運慶の作である。そこにはいままでの定朝様式とは異なる、新しい時代の到来を予告するものがあった。
[永井信一]
絵画
平安前期(遣唐使廃止の894年まで)の遺品は少ないが、空海が唐の代表的画家李真(りしん)らの描いた真言五祖像を持ち帰り、のち日本で二祖像をそれに倣って加えた(東寺の真言七祖像がこれである)ことでもわかるように、唐絵(からえ)の描法がまだ支配的であった。しかし、後期の藤原時代になると、絵画は大陸様式を脱却して日本独自のものを開花させてゆく。
藤原時代の仏画では、951年(天暦5)の醍醐(だいご)寺五重塔初層壁画の両界(りょうがい)曼荼羅図があり、描線など前代の宗教画より全体的に穏やかな画風を示す。11世紀に入ると、1053年完成の宇治平等院鳳凰堂の扉絵にみられるように、絵画の和様化は一段と進む。そして11世紀後半には、応徳(おうとく)3年(1086)の年記をもつ和歌山・金剛峯寺(こんごうぶじ)の仏涅槃(ねはん)図、薬師寺の慈恩大師像、兵庫・一乗寺の天台高僧像、京都・青蓮院(しょうれんいん)の青(あお)不動などが現れ、柔らかい描線と鮮やかな色彩で、唐風を脱した和様の新様式を鮮明にしている。さらに12世紀に入ると、仏画は華麗さをより強調し、繊細さをさらに加えていく。東京国立博物館の普賢(ふげん)菩薩像と孔雀明王(くじゃくみょうおう)像、東寺の十二天像(1127完成)、神護寺の釈迦如来像、高野山(こうやさん)の阿弥陀聖衆来迎(しょうじゅらいごう)図などがそれである。
以上の仏画と並んで、この時代には多くの優れた世俗画が描かれている。中国伝来の絵画を粉本に、中国の風俗・風景を描いたいわゆる唐絵が、宮廷はじめ公家(くげ)の間で好まれたことは文献からも知られる。しかし、これでは日本人の美的感覚にもの足りないものがあり、日本の自然・風俗を写す日本的な絵画表現が要求されるようになった。これがやまと絵(大和絵・倭絵とも)で、これによる四季絵や名所絵が10世紀末ごろから描かれ始めている。京都国立博物館の山水(せんずい)屏風では、もともとは唐絵の題材である白楽天(はくらくてん)を主題としながら、人物以外はやまと絵の傾向を示しており、11世紀末から12世紀ごろの絵画の具体的趨勢(すうせい)を示して興味深い。
この時代には優れた物語文学が相次いで現れたが、その場面場面を絵にして、手元に置いて鑑賞することが行われた。絵巻形式の『源氏物語絵巻』(12世紀前半)がその代表的なもので、絵巻形式の制約の画面を生かして、吹抜屋台(ふきぬきやたい)など画面構成に種々のくふうがなされている。引目鈎鼻(ひきめかぎはな)とよばれる単純化された人物描写、叙情性や装飾性を特色とし、「女絵(おんなえ)」とよばれる。これに対し『信貴山縁起(しぎさんえんぎ)』『伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば)』などは説話や伝説を主題とし躍動する線描や場面展開で、「男絵(おとこえ)」とよばれる。ほかに白描画の『鳥獣人物戯画』、『地獄草紙』『餓鬼草紙』などの六道絵、書画一体の美をねらった『三十六人集』などがある。また浄土を願う写経の流行に伴い、料紙や見返しの装飾に善美を尽くした装飾経が社寺に奉納された。平家一門による厳島(いつくしま)神社の『平家納経』はもっとも有名である。
[永井信一]
工芸
平安時代を代表する金工品に仏具と和鏡がある。梵鐘(ぼんしょう)は貞観17年(875)銘の神護寺梵鐘、延喜(えんぎ)17年(917)銘の栄山(えいさん)寺梵鐘など年記のある作品も多く、銘文を陽鋳した弘仁7年(816)銘の興福寺灯籠(とうろう)扉もある。また、宝相華(ほうそうげ)文を透彫りした中尊寺金色(こんじき)堂の華鬘(けまん)、厳島神社の平家納経を納めた経箱などは、当時の貴族の嗜好(しこう)をよく示している。鏡も草花や鳥を繊細に表し、三重・四天王寺薬師如来像の胎内発見の唐草双鳳鏡には藤原時代の和鏡の様式がみられる。この時代も後期になると武士が台頭し、厳島神社の平重盛(しげもり)所用紺糸威大鎧(おどしおおよろい)、東京御岳神社の畠山重忠(はたけやましげただ)所用赤糸威大鎧などの鎧が多く残されている。
漆工芸は、平安中期に研出(とぎだし)蒔絵や蒔きぼかしをして色彩効果を出し、さらに蒔絵と螺鈿を併用して金銀と貝の調和をみせるなど、高度の技術を完成させた。これらは調度類、仏具、建築装飾に用いられ、藤原時代の正倉院ともいわれる奈良・春日(かすが)大社本宮御料古神宝類には蒔絵箏(そう)、金地螺鈿毛抜形太刀(けぬきがたたち)などの優品がある。
陶磁は、高火度焼成による灰釉(はいぐすり)陶器が愛知県猿投山麓(さなげさんろく)でつくられて全国に流布し、このころ奈良三彩の流れをくむ緑釉(りょくゆう)陶もつくられた。平安後期には渥美(あつみ)窯や常滑(とこなめ)窯が築かれている。
染織の遺品は少ないが、貴族の束帯や裳(も)、唐衣(からぎぬ)などの装束で、文様を浮き出させる浮線綾(ふせんりょう)が発達し、また色の重なりに変化を求める襲色目(かさねいろめ)により、百余色に及ぶといわれる微妙な染色技術が発達したことは注目してよい。
[永井信一]
鎌倉・室町時代
鎌倉の美術は、治承(じしょう)の兵火(1180)によって焼失した南都東大寺と興福寺の復興事業から始まった。その際、範とされたのは前代の藤原期のものではなく、飛鳥・天平の古典美術であった。このような、いわば一種のルネサンス現象は、建築・彫刻の分野でもっともよくみられる。宋(そう)代の文化、ことに禅宗は精神面でも大きな刺激となり、室町時代を通じて絵画・書跡に大きな影響を及ぼした。さらに鎌倉時代に生まれた浄土真宗、時宗、日蓮(にちれん)宗などの新仏教が人々に及ぼした新興の気運は、美術の面にも反映してくる。
続く室町時代には、応仁(おうにん)の乱(1467~1477)によって文化面にも大きな変革がもたらされ、美術面でもその前と後では著しい相違がみられる。京都五山・鎌倉五山を中心に栄えた禅宗美術は、応仁の乱によって中国風は一挙に葬り去られ、日本古来の伝統を生かした新しい美術が台頭する。その際、絵画における雪舟や雪村のように、京都から離れた諸地方で美術活動が行われるようになったこと、前代まで一部支配者のためのものであった美術がしだいに階層の幅を広げたこと、そして、次代の近世文化勃興(ぼっこう)の基礎がそれによって築かれていったことが特筆されよう。
[永井信一]
彫刻
南都復興事業に活躍したのは、奈良仏師の康慶(こうけい)とその子弟たちである。康慶の子運慶は青年期に見たり修理した多くの天平仏に対して鋭い観察力を働かせ、それが土台となって、興福寺無著(むじゃく)・世親(せしん)像(1212)や金剛峯寺の制多伽(せいたか)童子像のような、天平彫刻の写実と平安初期の重量感をあわせもつ新様式を確立した。運慶没後、長子湛慶(たんけい)は父の作風を受け継ぎながら大胆な表現を抑制し、三十三間(さんじゅうさんげん)堂本尊千手観音像のような優美な都(みやこ)ぶりの作品を残した。第3子の康弁(こうべん)は興福寺の天燈鬼・竜燈鬼をつくり、第4子康勝(こうしょう)は京都・六波羅蜜(ろくはらみつ)寺の空也上人(くうやしょうにん)像をつくっている。
材質面からみると、平安時代にはあまりみられなかった銅像や塑像が復活した。銅の生産量が各地で増加したこともあって、東大寺の大仏が復興されたほか、建長(けんちょう)年間(1249~1256)には鎌倉・高徳院の阿弥陀如来像、いわゆる鎌倉大仏がつくられた。
肖像彫刻に優品が多いのもこの時代の特色の一つで、禅宗では師の肖像頂相(ちんそう)が盛んにつくられた。また神奈川・明月(めいげつ)院の上杉重房(しげふさ)像のような、武人の俗体像も鎌倉彫刻の写実的傾向を示している。
鎌倉期後半になると仏像彫刻は急速に衰え、室町期に入っても新しい様式は生まれなかった。わずかに慶派の流れをくむ椿井(つばい)仏所が活動し元興(がんごう)寺、長谷寺(はせでら)の造仏を行った。この時代には能楽の流行とともに、面打ちとよばれる能面作家が佳品を多く残している。
[永井信一]
絵画
藤原時代の終わりからみられた群像表現や現実感、速度感が強調され、その一つとして現世と来世を結び付ける来迎(らいごう)図が描かれた。京都・禅林寺の山越(やまごし)阿弥陀図は山上に出現する阿弥陀が臨場感あふれる筆致で描かれ、京都・知恩(ちおん)院の阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎(はやらいごう))はスピード感に満ちている。
肖像画も盛んに描かれた。京都・神護寺の源頼朝(よりとも)・平重盛(しげもり)・藤原光能(みつよし)の各画像は似絵(にせえ)の名手といわれた藤原隆信(たかのぶ)の筆と伝えられ、それぞれの対象人物の個性を鮮やかにとらえている。隆信の子信実(のぶざね)も似絵を得意とし、大阪・水無瀬(みなせ)神宮の後鳥羽(ごとば)天皇像(1221)、『随身庭騎絵巻』『佐竹(さたけ)本三十六歌仙絵巻』などがある。信実以後では豪信(ごうしん)作の花園(はなぞの)天皇像(京都・長福寺、1338)、京都・高山(こうざん)寺の明恵(みょうえ)上人像などがある。
絵巻物は前時代に続いてさらに流行普及した。『紫式部日記絵巻』『枕草子(まくらのそうし)絵巻』などの文学作品のほか、戦記絵巻も数多くつくられ、『平治(へいじ)物語絵巻』『蒙古(もうこ)襲来絵詞』などは精巧な表現で、戦記の記録画としても貴重である。社寺縁起、高僧伝も相次いでつくられ『北野天神縁起』『一遍(いっぺん)上人絵伝』などがある。鎌倉後期には『男衾(おぶすま)三郎絵巻』『東北院職人歌合(うたあわせ)絵巻』のような庶民性のあるものが現れ、これはやがて室町時代の御伽草子(おとぎぞうし)へと展開していく。
宋(そう)の水墨画は、白雲恵暁、一山一寧(いっさんいちねい)ら禅僧の余技による山水画・花鳥画によって第2の唐絵として日本に定着した。これらの禅僧の余技に対して、室町時代には明兆(みんちょう)、周文(しゅうぶん)ら専門の絵師が活躍し、禅僧の詩文に水墨画を組み合わせた詩画軸や水墨襖絵(ふすまえ)がつくられた。室町末期になると地方画壇にも活発な動きがあり、周防(すおう)国(山口)の画僧雪舟は堅固な構築性と実在感に富む独特の山水画を完成、常陸(ひたち)国(茨城)出身の雪村は東国で活躍し、雄健な作品を残した。一方、京都では狩野正信(かのうまさのぶ)が唐絵とやまと絵の手法を分け用いて、狩野派の始祖となった。正信の子元信(もとのぶ)はやまと絵に水墨障屏(しょうへい)画と明(みん)の花鳥画を取り入れて、書院建築の装飾画としての障屏画様式を生み出し、これはやがて金碧(きんぺき)障屏画として次の桃山期に大きく発展していく。
[永井信一]
工芸
武家文化を反映して武具刀剣類の生産が盛んで、大和(やまと)、山城(やましろ)、備前(びぜん)、美濃(みの)、相模(さがみ)のいわゆる五か伝を中心として多くの名刀が製作された。ことに相州正宗(まさむね)は後世の刀工の範とされた。刀装具では足利義政(あしかがよしまさ)に仕えた後藤祐乗(ゆうじょう)が有名で、彼は室町期の代表的な彫金作家である。室町時代には茶の湯が流行し、筑前(ちくぜん)(福岡県)の芦屋(あしや)、佐野(栃木県)の天命(てんみょう)が茶の湯釜(かま)の生産地として名高い。
漆工芸は前時代から盛んに行われていたが、鎌倉期になって明の堆朱(ついしゅ)・堆黒の手法をまねた鎌倉彫がつくりだされ、室町期には装飾性を排した根来(ねごろ)塗が始められている。
[永井信一]
桃山時代
一般史では安土(あづち)桃山時代として、織田信長が足利義昭(よしあき)を擁して岐阜から上洛(じょうらく)した1568年(永禄11)から、江戸幕府開設の1603年(慶長8)をさすが、美術史では桃山様式が華やかな展開を示した慶長(けいちょう)・元和(げんな)(1596~1624)を含め、寛永(かんえい)末年(1644)ごろまでを桃山時代とする場合が多く、ここでもこれに従う。期間にしてわずか70余年であるが、日本美術史を通じて、支配階級のみならず庶民のエネルギーが一つの方向をもち始めた時期として注目される。建築では、それまでの社寺建築にかわって、武将が自己の権威を誇示するために築いた城郭建築が中心で、これに伴い武将の住居としての書院造が生み出された。その一方で、草庵(そうあん)風茶室の小空間に静寂の境地が求められ、軽妙な数寄屋(すきや)建築もつくられた。豪華と佗(わ)びと、この一見相反する傾向は、桃山文化のみならず、近世以後の日本美術の両面性の本質を示すものである。
天正(てんしょう)から慶長にかけて豊臣秀頼(とよとみひでより)による方広寺大仏、東寺諸仏の修理造立が相次ぎ、江戸初期では江戸幕府が諸大名に命じて、日光輪王(りんのう)寺、江戸寛永(かんえい)寺の建立があった。そして、これらの造仏には伝統仏所の仏師たちが働いたが、鎌倉期初頭にみたようなエネルギーはついによみがえることなく、いたずらに前期の仏像を模するだけの職人芸に終わり、彫刻の不振は江戸時代も続いた。
[永井信一]
絵画
衰微した彫刻に比べて、絵画は濃絵(だみえ)とよばれる金碧(きんぺき)濃彩による障屏画の黄金時代を迎え、日本絵画史上もっとも壮大で明るく、生命感に満ちた華麗な様式を生み出した。この桃山前期絵画のリーダーとなったのは狩野永徳(えいとく)である。大徳寺聚光(じゅこう)院客殿の梅水禽(うめすいきん)図襖絵で祖父元信をしのぐ才能をみせ、洛中洛外図屏風では近世都市として発展しつつあった京都の当時のありさまを細密な筆で生き生きと描いている。晩年には唐獅子(からじし)図屏風や檜(ひのき)図屏風にみるような見る人を圧倒するような大画面を構成している。
次いで慶長年間(1596~1615)に活躍したのが永徳の子光信(みつのぶ)、弟子の山楽(さんらく)である。光信はやまと絵の手法を取り入れた優雅な画風で、園城(おんじょう)寺勧学院の花木図襖絵をつくり、山楽の代表作としては大覚(だいかく)寺の牡丹(ぼたん)図、紅梅図、松鷹図がある。狩野派以外では智積(ちしゃく)院障屏画や松林図(しょうりんず)屏風の長谷川等伯(はせがわとうはく)と、海北友松(かいほうゆうしょう)があげられる。友松は武門の出で、禅の教養も深く、建仁(けんにん)寺本坊の水墨障屏画のような気迫に満ちた作品がある。
この桃山の現世肯定主義は、花下遊楽図屏風、豊国祭図屏風などの風俗画に遺憾なく発揮されている。このほか当時の風俗の一面を伝えるものに南蛮屏風がある。対外貿易が盛んになって、ポルトガル人を中心に南蛮人が渡来し、そのヨーロッパ風俗が人々の好奇心をとらえたのである。洋風画は、イエズス会が北九州に設けた神学校(セミナリオ)で洋画の技法を教えたのが始まりで、異国趣味の泰西王侯騎馬図屏風や洋人奏楽図屏風がつくられた。
[永井信一]
工芸
城郭や書院造の豪壮な建築は建具金具類の発達となり、襖の引き手や釘隠(くぎかくし)は透彫りや文様で飾られた。装剣具も武家の華美な好みにあわせて象眼鐔(つば)や透(すかし)鐔が流行し、代々の後藤家が腕を振るった。蒔絵は城郭の内装にまで及び、高台(こうだい)寺蒔絵は秀吉夫妻の遺愛の品々で、桃山の漆工芸を代表する逸品である。
千利休(せんのりきゅう)や古田織部(ふるたおりべ)らの優れた指導者を得て茶の湯は活況を呈し、そのための花生(はないけ)、水指、茶の湯専門の楽茶碗(らくちゃわん)などがつくられた。また、秀吉の朝鮮侵略によって連れてこられた陶工により、高取(たかとり)、萩(はぎ)、薩摩(さつま)、唐津(からつ)などの窯(かま)が開かれ、作陶に大きな貢献をしたことも見逃せない。
染織では縫い絞り、刺しゅう、摺箔(すりはく)の技術を駆使した辻が花(つじがはな)染めが愛されるなど、豪華な逸品が多くつくられた。
[永井信一]
江戸時代
美術史では、寛永(かんえい)(1624~1644)末年以降、明治維新(1868)までを扱う。17世紀後半まで、美術は桃山文化の余光のなかにあったが、元禄(げんろく)期(1688~1704)になると、文化の担い手は支配階級から、富力を蓄えた上方(かみがた)や江戸の町人階級に移っていく。鎖国によって西洋への門は閉ざされていたが、明・清(しん)の絵画・工芸・書などがもてはやされ、南画や漢詩の一大隆盛をみた。江戸時代の美術は時代を反映して大衆化に特徴があり、それによって培われた庶民のエネルギーが、明治の近代化を促進する要因となったといえる。
彫刻は前代よりさらに衰退したが、いわば専門の彫刻家でない、異端に属する遊行(ゆぎょう)僧の円空(えんくう)や木喰(もくじき)の作品が、近年になって全国から次々と発見され、現代人の関心をよんでいる。また幕末から明治にかけて牙彫(げちょう)(根付(ねつけ)など)が盛んになり、宗教的主題を離れた愛玩(あいがん)用具に細密な技術を振るった。
しかし、建築では桂(かつら)離宮と修学院(しゅがくいん)離宮という、庭園と建築が一つに溶け合った日本美の一典型をつくりだし、これと対照的な日光東照宮のような華麗な霊廟(れいびょう)建築も行われ、今日に残るものが多い。
[永井信一]
絵画
仏画にはほとんどみるべきものがなく、江戸の絵画作品はやまと絵、南画、風俗画に集中している。桃山時代に永徳や山楽によってその基礎を形成した狩野派は、探幽(たんゆう)が出て水墨画の瀟洒(しょうしゃ)な新様式をたてたが、やがて江戸幕府の御用絵師の地位に安住して作風は形式化し、土佐派も宮廷の画所預(えどころあずかり)の地位にあってやまと絵の古様をなぞるのみで、新風はおこらなかった。むしろ傍流の久隅守景(くすみもりかげ)や英一蝶(はなぶさいっちょう)が個性的な画風を確立した。
狩野派、土佐派の伝統を取り入れ、独自の画風を打ち立てたのは在野の画家たちである。俵屋宗達(たわらやそうたつ)は桃山期から活動を始め、金銀泥絵(でいえ)、色紙、扇面などの大胆な画面構成と明快な色彩で、代表作の舞楽図や風神雷神図屏風にみるような独自の絵画世界をつくりあげた。ついで近世絵画に新しい展開をもたらしたのは尾形光琳(こうりん)で、京都の呉服商生まれの彼は染織によって培われた意匠感覚で、宗達とはまた異なる装飾的な絵画世界に到達した。燕子花(かきつばた)図屏風、紅白梅図屏風は彼の代表作であると同時に江戸絵画の傑作である。光琳の弟に陶芸家の尾形乾山(けんざん)がいる。
次に絵入版本の作者として登場したのが、浮世絵の祖といわれる菱川師宣(ひしかわもろのぶ)である。浮世絵は肉筆のほか、彫師、摺師の協力を得て開発された多色摺によって、飛躍的に豊かな表現力をもつようになった。錦絵(にしきえ)を創案した鈴木春信(はるのぶ)、天明(てんめい)期(1781~1789)の鳥居清長(きよなが)、美人大首絵(おおくびえ)という新様式を編み出した喜多川歌麿(きたがわうたまろ)、クローズ・アップによる特異な役者絵を描いた東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)、風景画で世界的な葛飾北斎(かつしかほくさい)や歌川広重(ひろしげ)ほか多くの浮世絵画家が輩出し、江戸美術に大きなウェイトを占める。
江戸幕府が文治政策の基本とした儒学の興隆にしたがって誕生したのが南画である。中国南宗画(なんしゅうが)の様式と文人画の理念をあわせて取り入れ、日本独特の発展を遂げた。池大雅(いけのたいが)、与謝蕪村(よさぶそん)はその代表的画家である。南画が写意的であるとすれば写生に徹したのは円山応挙(まるやまおうきょ)で、多くの弟子を育成して円山派を創始した。
1720年(享保5)8代将軍徳川吉宗(よしむね)がキリスト教以外の洋書を解禁すると、宗教色のない洋風画にふたたび関心が高まり、平賀源内(ひらがげんない)の指導で秋田藩に和洋折衷の秋田蘭画(らんが)がおこった。この影響を受けて司馬江漢(しばこうかん)は日本初の銅版画を制作している。亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)は銅版画では江漢をしのぎ、江戸名所を描くとともに、油彩の大作、浅間山真景図屏風を残している。
このほか18世紀後半から19世紀初頭の異色ある画家に、伊藤若冲(じゃくちゅう)、曽我蕭白(そがしょうはく)、浦上玉堂(うらかみぎょくどう)、青木木米(もくべい)、田能村竹田(たのむらちくでん)らがいる。谷文晁(ぶんちょう)はいわゆる烏(からす)文晁様式を打ち立て、文晁の弟子のなかでもっとも傑出した渡辺崋山(かざん)は洋画の手法を取り入れて、鷹見泉石(たかみせんせき)像のような優れた肖像画を残した。
1815年(文化12)酒井抱一(さかいほういつ)は光琳百年忌を営み、光琳様式の復興を目ざした。夏秋草図屏風は抱一の繊細な叙情性をよく表している。
[永井信一]
工芸
桃山蒔絵を一段と洗練させた蒔絵が本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)によってつくられ、それを受け継いで、尾形光琳は八橋蒔絵螺鈿硯箱(やつはしまきえらでんすずりばこ)のような名品を生んだ。1637年(寛永14)に将軍家光(いえみつ)の長女千代姫が尾張(おわり)徳川家に嫁いだ際の初音蒔絵婚礼調度は、江戸時代の蒔絵の特色をよく表している。
陶芸では1616年(元和2)朝鮮から帰化した李参平(りさんぺい)によって有田(佐賀)で初めて磁器がつくられたのに次ぎ、寛永末年には酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん)が赤絵磁器の焼成に成功、以後有田地方の磁器は伊万里(いまり)港から日本各地に送られ、中国、ヨーロッパにも輸出された。加賀国(石川県)にも色絵磁器の製法が伝わって九谷焼(くたにやき)ができ、京都に野々村仁清(にんせい)が出て、陶器の色絵を完成した。
染織では刺しゅうや摺箔の技術を駆使した豪華な寛文小袖(かんぶんこそで)が現れ、繍(ぬい)や絞りがぜいたく品として禁止されると染めが発達し、友禅(ゆうぜん)、型染め小紋、描絵など華麗さを競った。また綿の栽培が盛んになって、南方渡来の縞(しま)の流行をみ、江戸の染織工芸は多彩で精巧を極めた。
[永井信一]
明治以降現代まで
明治以降の日本美術の展開は、社会一般の近代化とほぼ軌を一にしている。明治政府は産業振興のためにしばしば博覧会を開き、美術コンクールとその展示を行った。また、世界の博覧会に伝統的な工芸美術を積極的に出品し、世界にその存在を知らせるとともに、輸出への活路をみいだそうと努めた。こうした動きはやがて美術界に対する干渉と官展の創設につながり、これに反発して在野の美術団体が結成された。大正以後は、伝統美術の継承と新美術の成立という二つの流れが拮抗(きっこう)しながら展開していく。第二次世界大戦の暗黒時代を経て、現代では伝統の今日的認識と、世界的視点にたった日本美術のあり方が求められている。
[永井信一]
彫刻
本格的な洋風彫刻は1876年(明治9)工部美術学校教師としてイタリアから招かれたビンチェンツォ・ラグーザによって始まった。彼は日本の伝統彫刻とは異なるモデリング(肉づけ)の技法を教え、門下から藤田文蔵(ふじたぶんぞう)(1861―1934)や、大村益次郎(おおむらますじろう)の銅像をつくった大熊氏広(1856―1934)らが育っていった。明治10年代後半になって江戸木仏師(きぶっし)の出身である高村光雲(たかむらこううん)らが木彫の伝統を復活させた。そして明治40年代には、ヨーロッパから帰国した荻原守衛(おぎわらもりえ)、高村光太郎(こうたろう)がロダン以後のヨーロッパの近代彫刻を伝え、次の世代に大きな刺激を与えた。これを受けて、平櫛田中(ひらくしでんちゅう)、戸張孤雁(とばりこがん)、朝倉文夫(あさくらふみお)、中原悌二郎(なかはらていじろう)、石井鶴三(いしいつるぞう)、マイヨールに学んだ山本豊市(やまもととよいち)が出、大正に入ってはロダン晩年の助手をつとめた藤川勇造、さらにロダン以後のブールデルの系列に清水多嘉示(しみずたかし)、木内克(きのうちよし)らがいる。
第二次世界大戦後にはマリノ・マリーニ、エミリオ・グレコといった現代のイタリア彫刻が紹介され、具象彫刻は新たな発展をみせた。その一方で1960年代には絵画と同じくピカソ、ミロなどの自由な表現が戦後世代の彫刻家の心をとらえた。近年は工業技術の進歩により、素材も金属、プラスチック、光などを駆使した斬新(ざんしん)で抽象的な立体造形作品が目だつようになり、アッサンブラージュ(廃棄物の寄せ集め)、プライマリー・ストラクチャー(基本構造)、キネティック・アート(動く造形)など、国際的な彫刻の動向を反映して多彩な作品が生み出されている。
[永井信一 2018年9月19日]
絵画
明治初期来日したお雇い外国人教師フェノロサは、日本の伝統美術に魅せられて日本古来の絵画を礼賛し、これに呼応して狩野芳崖(ほうがい)は『悲母観音』(1888)によってやまと絵の命脈を示した。芳崖亡きあと、フェノロサの思想は岡倉天心によって推進され、1889年(明治22)東京美術学校が開校されると、天心の周辺には新しい日本画を目ざす横山大観(たいかん)、菱田春草(ひしだしゅんそう)、下村観山(しもむらかんざん)らが集まり、それは次の世代の今村紫紅(しこう)、速水御舟(はやみぎょしゅう)、安田靫彦(ゆきひこ)、小林古径(こけい)、前田青邨(せいそん)らに引き継がれていった。一方、長い伝統のうえにたつ京都の日本画壇は竹内栖鳳(せいほう)を中心に近代化が進められ、上村松園(うえむらしょうえん)は典雅な色調の女性風俗によって閨秀(けいしゅう)画家の第一人者となった。官展系では鏑木清方(かぶらききよかた)が江戸中期浮世絵の伝統から独自の風俗画を完成し、平福百穂(ひらふくひゃくすい)は詩情ある画風を達成した。土田麦僊(つちだばくせん)、村上華岳(かがく)らは官展で認められず、離反してヨーロッパの後期印象派からの影響も受けながら、個性ある作風を展開した。こうした近代化の一方で、文人画の伝統を追求した者に富岡鉄斎(てっさい)、小川芋錢(うせん)がいる。また新古典主義ややまと絵に反発して、会場芸術を標榜(ひょうぼう)して大作主義を貫いたのが川端龍子(りゅうし)の青龍社であった。
洋画は、江戸末期の洋風画にその萌芽(ほうが)をみせてはいたが、本格的な洋画の出現は明治10年前後であり、高橋由一(ゆいち)は明治初期の代表作家である。1876年工部美術学校が創設されてアントニオ・フォンタネージが指導にあたり、浅井忠(ちゅう)、小山正太郎(こやましょうたろう)、山本芳翠(ほうすい)らが学んだ。1893年にフランスから帰国した黒田清輝(せいき)、久米桂一郎(くめけいいちろう)がもたらした外光派とよばれる印象派風な絵画は新鮮さをもって迎えられ、そこから藤島武二(たけじ)、青木繁(しげる)らのロマン主義的な絵画が生まれた。
1912年(大正1)9月に印象派・後期印象派の傾向をもつフュウザン会が誕生、1914年には官展に対する不満から二科会が創立され、以後、群立する在野集団の先駆けとなった。こうして大正期の絵画は、岸田劉生(りゅうせい)、萬鉄五郎(よろずてつごろう)、関根正二(しょうじ)、村山槐多(かいた)、熊谷守一(くまがいもりかず)、竹久夢二(ゆめじ)などきわめて個性的な画家たちによって彩られる。大正から昭和にかけて、里見勝蔵(かつぞう)、佐伯祐三(ゆうぞう)、林武(たけし)、鳥海青児(ちょうかいせいじ)らによってフォービスム絵画が日本に定着した。シュルレアリスムは昭和初年に福沢一郎によって紹介され、三岸好太郎(みぎしこうたろう)や古賀春江(はるえ)に影響を及ぼした。官展系のなかでも大正から昭和にかけて自己様式の完成を示した画家に、坂本繁二郎(はんじろう)、安井曽太郎(そうたろう)、梅原龍三郎(りゅうざぶろう)がいる。安井・梅原は昭和前期の洋画界を二分する代表作家といわれた。
第二次世界大戦後の画壇は各美術団体の展覧会によって活気を帯びてくる。国際的な視野が開けてくるのは1950年代からで、各種国際展への参加によって、世界美術の傾向が日本美術にも反映し、藤田嗣治(つぐはる)、荻須高徳(おぎすたかのり)のように活動の場を海外に求め、そこで高く評価される画家も多くなった。
1951年(昭和26)神奈川県立近代美術館を皮切りに、近代的設備を整えた美術館の創設が相次ぎ、昭和50年代には地方での公立、私立の美術館設立ラッシュが続いたが、これも一般の美術愛好熱と理解を高めるうえで大きな役割を果たしている。
[永井信一]
『久野健・永井信一他編『美術史――日本』(1970・近藤出版社)』▽『源豊宗著『日本美術の流れ』(1976・思索社)』▽『小林行雄・井上靖他監修『国宝大事典』全5巻(1985~1986・講談社)』▽『町田甲一・永井信一編『日本美術小事典』(1977・角川書店)』▽『太田博太郎・山根有三他監修『原色図典日本美術史年表』(1986・集英社)』▽『『原色日本の美術』改訂新版・全32巻(1980・小学館)』