日本大百科全書(ニッポニカ) 「児童雑誌」の意味・わかりやすい解説
児童雑誌
じどうざっし
児童を対象とする雑誌をさすが、幼児からローティーン向けのものまで含まれる。
[桂 宥子]
外国
17世紀後半からヨーロッパ各地で発行されていた大人の雑誌の影響下に、18世紀の後半になって初期の児童雑誌が刊行され始めた。イギリスではニューベリーが『リリピューシャン・マガジン』The Lilliputian Magazine(1751)を出版し、ドイツではワイセが『子どもの友』Der Kinderfreund(1775~82)を、フランスではベルカンが同名の『子どもの友』L'Ami des Enfants(1782~83)を刊行している。これらはかならずしも定期的に刊行されておらず、雑誌というより、雑録的色彩が強い。
19世紀に入りイギリスでは、当時盛んであった日曜学校運動に伴い、キリスト教各派から日曜学校雑誌が出版された。1930年代まで続いた『チャイルズ・コンパニオン』The Child's Companion(1824~1932)のように、日曜学校雑誌はしだいに宗教色を薄め、かわりに子供の興味をひく記事や物語を増し、近代的な意味での児童雑誌に発展していった。
アメリカでは『ユース・コンパニオン』The Youth's Companionが刊行され(1827)、のちに『アメリカン・ボーイ』The American Boyに買収されるまで102年間続いた。また、S・G・グッドリッチは知育的な児童雑誌『ピーター・パーレーのマガジン』Peter Parley's Magazine(1840~63)などを出版して一世を風靡(ふうび)した。
19世紀後半に児童雑誌はその黄金時代を迎える。当時の優れた児童文学作品は、単行本になる前に、まず雑誌に掲載されることが多かった。最初の近代的な児童雑誌といわれるイギリスの『グッド・ワーズ・フォー・ザ・ヤング』Good Words for the Young(1868~72)にはC・キングズリーやG・マクドナルドらの寄稿がみられる。当時の優れた児童雑誌として、イギリスのもっとも有名な少年雑誌『ボーイズ・オウン・ペーパー』The Boy's Own Paper(1879~1967)とアメリカの『セント・ニコラス』St. Nicholas(1873~1939)があげられる。後者にはオールコット、マーク・トウェーン、キップリングらが寄稿している。
20世紀に入り、児童雑誌の衰退は、カナダなどは別として、世界的な傾向といえる。児童書の普及やマス・メディアの発達で、児童雑誌は優れた子供の読み物を多数の読者に廉価で提供するという本来の使命を失ったからである。
なお、旧ソ連では1924年、児童誌『ピオネール』Пионер/Pionerと幼年誌『ムルジルカ』Мурзилка/Murzilkaが創刊され、後者は1985年には発行部数570万部を誇るなど、広く読まれていた。しかし、ソ連崩壊後は大幅に減少した。中国では、『児童時代』(1950)、『小朋友』(1953)のほか、文化大革命後、多くの児童・幼年雑誌が出現している。
[桂 宥子]
日本
子供のための文学作品や諸種の読み物を取り混ぜて掲載した定期刊行物としての児童雑誌は、欧米諸国でもそうであったが、日本の場合も、近代以前には存在しなかった。いわゆる赤本のように絵解きを中心とした絵本は別として、文章による読み物を主軸とした定期刊行物は、第一に近代的な活版印刷術の発達、第二に初等教育の普及に基づく識字児童の増加、第三に子供に毎月雑誌を買って与えることの可能なだけの家庭経済のゆとり、そして第四に子供が雑誌を喜ぶことを容認する父母の児童観の円熟がなくては成立しないからである。日本の近代は欧米諸国よりもはるかに遅れて到来したが、その当然の結果として、児童雑誌の誕生も、世界最初の児童雑誌といわれるニューベリーの『リリピューシャン・マガジン』(1751)より126年もたってからで、すなわち1877年(明治10)創刊の『穎才(えいさい)新誌』(製紙分社、のち穎才新誌社)が日本最初の児童雑誌であった。これを皮切りとして明治10年代に多数の児童雑誌の刊行をみたが、いずれも少年少女の作文投稿雑誌であったのは、成人の心裡(しんり)にまだ児童ジャーナリズム観が熟していなかったからであろう。
しかしながら明治20年代(1887~96)に至ると、作文投稿雑誌から脱却し、『少年園』(1888、少年園)、『少国民』(1889、学齢館)など大人が子供のためにつくった本来的な意味での児童雑誌が現れる。これらの雑誌は教育・教化的要素が濃厚で娯楽的要素に乏しく、加えて、読者たる子供の性別や心理発達段階への考慮を払っていなかった。そうした傾向に変化が兆したのは明治30年代(1987~1906)で、少年向きには『少年世界』(1895、博文館)、『日本少年』(1906、実業之日本社)など、少女向きには『少女世界』(1906、博文館)、『少女の友』(1908、実業之日本社)などといったように性別的配慮がなされ、また幼児には絵雑誌がふさわしいとして『幼年画報』(1906、博文館)、『幼年の友』(1909、実業之日本社)がつくられるなど発達段階的配慮もなされるようになった。
第一次世界大戦による経済的好況に恵まれた大正期は児童雑誌の全盛期といってよく、『赤い鳥』(1918、赤い鳥社)や『金の船』(1919、のち『金の星』、キンノツノ社)など芸術的な香気の高い童話雑誌が登場。一方、大衆的読み物や漫画を主軸としマス・セールスに頼った『少年倶楽部(くらぶ)』(1914、講談社)や『少女倶楽部』(1923、講談社)など、学習の手助けとなることをうたった学年別学習雑誌『小学五年生』『小学六年生』(1922、小学館)などが、それまで雑誌に縁のなかった農山漁村にまでも行き渡った。前者=芸術的な童話雑誌からは小川未明(みめい)の童話や北原白秋(はくしゅう)の童謡など優れた児童文化が生まれ、後者=大衆的児童雑誌からは吉川(よしかわ)英治・佐藤紅緑(こうろく)らの少年大衆小説や田河水泡(たがわすいほう)らの漫画などが生まれ、日本の児童文化の原型になったということができる。
1941年(昭和16)に始まった太平洋戦争は、児童雑誌の多くを廃刊に追いやったうえ内容的に荒廃させた。その反動で戦後は童話雑誌・大衆児童誌を含めて児童雑誌の洪水現象を招いたが、朝鮮戦争期にほとんどが姿を消した。そして昭和30年代(1955~64)に入ると、経済のいわゆる高度成長を背景としてテレビ・週刊誌を主軸とする映像文化時代が到来し、そのなかで児童雑誌も大きな転換をしなくてはならなかった。およそ50年の歴史を誇った『少年倶楽部』をはじめ月刊誌は過半が廃刊に追い込まれ、代わって登場してきたのは、『少年サンデー』(1959、小学館)、『少年マガジン』(1959、講談社)、『少女フレンド』(1962、講談社、1996休刊)、『少年ジャンプ』(1968、集英社)、『少年チャンピオン』(1969、秋田書店)など漫画・劇画を主体とする少年少女週刊誌であった。この漫画・劇画主体の少年少女週刊誌の盛況は1980年代以降も続いたが、徐々に青年層までが読者に加わるに及んで、内容が成人文化化する傾向にあるなど新しい現象を生み出している。
[上笙一郎]
『木村小舟著『少年文学史 明治篇』上下(1942・童話春秋社)』▽『『講談社の歩んだ五十年』(1959・講談社)』▽『日本児童文学学会編『赤い鳥研究』(1965・小峰書店)』▽『大塚英志編『少女雑誌論』(1991・東京書籍)』