大阪砲兵工厰争議(読み)おおさかほうへいこうしょうそうぎ

改訂新版 世界大百科事典 「大阪砲兵工厰争議」の意味・わかりやすい解説

大阪砲兵工厰争議 (おおさかほうへいこうしょうそうぎ)

1906年12月に起きた大阪砲兵工厰(職工数1万3600人)における争議日露戦争前後する時期,軍工厰造船所など日本資本主義の根幹をなす重工業大経営のほとんどにあいついで労働争議が発生した。おもな争議をあげると,1902年7月呉海軍船厰,8月東京砲兵工厰砲具製造所,03年5月三菱長崎造船所立神工場,10月大阪鉄工所桜島工場,06年2月石川島造船所,8月呉海軍工厰造機部・造兵部,東京砲兵工厰精機工場,12月大阪砲兵工厰,07年2月三菱長崎造船所(3件),4~6月横須賀海軍工厰の各争議となる。日露戦争の前後は,重工業大経営が技術的に確立した時期であり,経営側はそのなかで労働者への管理・規制の強化を企てた。これに対する労働者の抵抗が争議となって具体化したのである。さらに日露戦争直後の1906-07年には,軍需の減少による労働者の収入減という状況下に物価が急騰したため,争議件数は一挙に急増した。一連の争議の担い手は,技術的に中枢を占める分野と手工的熟練の解体が遅れた分野の者であり,それはこれらの分野に各経営の技術的な確立過程の矛盾が集中してあらわれたためであった。

 1906年12月の大阪砲兵工厰争議の場合,その直接の原因は,日露戦争後の生産削減下に人員整理賃金減額がなされたことにあり,これに当時露見した工厰職員の汚職資材の不正売却)ならびに彼らの強権的な職工取扱いに対する反発が加わっていた。賃金の増額と職員層の態度是正を要求して,労働者はストライキを準備した。もっとも,工厰側の周到な抑圧・監視体制のもとで,結局ストライキは実施されぬまま争議は同月終息する。労働者が争議に至った内的な要因として注目されるのは,彼らの多くが日露戦争への従軍体験の上に,〈臣民一員〉という自覚で要求を提出したことである。争議の後,工厰には経営家族主義に立脚する職工扶助施設が導入されるが,これは当時の重工業大経営のほとんどに共通した対策であった。
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