柿原庄(読み)かきはらのしよう

日本歴史地名大系 「柿原庄」の解説

柿原庄
かきはらのしよう

吉野町柿原から土成どなり宮川内みやがわうちにかけての地域一帯に比定される庄園。成立時期ならびに領主などについては不明。庄域は宮川内谷みやごうちだに川の右岸を占め、その大部分は同川によって形成された扇状地にあたる。鎌倉後期のものと思われる年月日未詳の宮河内郷地頭柿原義氏越訴状断簡写(原田家文書)に阿波国「柿原庄内宮河内郷」とみえ、当庄内宮河内郷の地頭柿原太郎義氏と、東隣の松島西条まつしまさいじよう(現上板町北西部から吉野町西条にかけての地域に比定)の地頭佐々木壱岐三郎氏綱との間で宮河内郷内の用水をめぐって相論が行われた。これによると旧来から宮河内郷で使用されていた用水について、柿原義氏の祖父義継(法名入意)の時、佐々木氏綱の父壱岐四郎左衛門入道道西が濫妨を働いたため相論となり、弘安元年(一二七八)六月に幕府から用水の知行が地頭柿原氏に認められた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

苦肉の策

敵を欺くために、自分の身や味方を苦しめてまで行うはかりごと。また、苦しまぎれに考え出した手立て。苦肉の謀はかりごと。「苦肉の策を講じる」...

苦肉の策の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android