柿原村(読み)かきのはらむら

日本歴史地名大系 「柿原村」の解説

柿原村
かきのはらむら

[現在地名]吉野町柿原かきはら

阿波郡の南東端に位置し、東は板野郡西条さいじよう村、南は吉野川を挟み阿波郡知恵島ちえじま(現鴨島町)、北は板野郡吉田よしだ村・阿波郡土成どなり(現土成町)で、東西に撫養むや街道が通る。西は阿波郡こおり(現同上)など。柿之原村とも記された。中世は柿原かきはら庄が成立。慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「かきの原」とあり、その北方に志の原しのはらとみえる。志の原はのち篠原しのはらと記され、当村の枝村であった。寛永一五―一八年(一六三八―四一)頃の作製と推定される阿波国大絵図では撫養街道とみられる街道の南側に東から西条村、板野・阿波の郡境を越えて篠原村・郡村・柿原村、山上やまのうえ(現市場町)の順で記載されている。慶長二年の分限帳では樋口内蔵助が一五〇石、蜂須賀彦次郎が一二〇石(大俣分)、田川忠右衛門が一〇〇石、井関八郎左衛門が一〇石、益田八右衛門が大俣おおまた(現市場町)と当村で四六石余を知行。寛永七年の知行割符帳(蜂須賀家文書)では六一石余が長谷川清左衛門の知行。正保国絵図では高四二四石余。当村と郡村の間に柿原のうち篠原村とある。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では田方一三五石余・畠方二八九石余、枝村として篠原村の注記がある。「阿波志」によれば篠原・広永ひろなが高畠たかばたけ島田しまだたに小笠おかさ・春日水・八幡はちまんの八里に分れる。土田は下等、陸田一〇分の八・水田一〇分の二、反別一六〇町三反余。租税五九八石余で四分の三が給地。家数四一一。文化一〇年(一八一三)の高都帳によれば高五六八石余。


柿原村
かきはらむら

[現在地名]八東町柿原

三浦みうら村の南、小畑おばた川上流の山間に立地。小畑郷一二ヵ村、小畑谷八ヵ村の一。正保国絵図・正保郷帳には柿ヶ原村と収載されていたが、元禄国絵図・元禄郷帳作成に当たって柿原に改められた(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)。しかし以後も柿ヶ原村と記すものがあるのは(「因幡志」など)、カキガハラとよんでいたためであろう。明治一八年(一八八五)の内務省地理局編纂「地名索引」にもカキガハラの訓が付されている。当地で小畑川に合流する谷を南方に登りつめ、綾木あやき(標高約九七〇メートル)を越えて智頭ちず八河谷やこうだに(現智頭町)に至る山道があり、「因幡志」は「若桜城下の時、三倉谷より小幡越とて此谷へ打越、其より綾木へかゝる、その上の往還筋にて今に至て牛馬の往来自由なり、されとも深山ゆへ雪中は牛馬通せす」と記す。


柿原村
かきばるむら

[現在地名]熊本市花園はなぞの七丁目

北と西は山で、東に向かって開け、東は井芹いせり川を挟み池亀いけがめ村・北島きたじま村、南は中尾なかお村に接する。慶長一三年(一六〇八)検地帳では「活亀之内柿原村」とあり、田方二五町六反五畝余・畠方四二町七反一畝余、分米六三九石六斗余とあり、富尾とみのお村の法成ほうしよう寺が田方三反余をもち、栗山が記される。寛永一二年(一六三五)の地撫帳では、京町太郎右衛門手永に属し、当竿前は田一九町六反七畝余・畠三一町二反三畝余とある。その後池田手永に属し、「国誌」に「寺籠村羽山尻村宮尾村畑村森徳村円徳寺村等ノ小村アリ」とある。

宝暦一三年(一七六三)の下ケ名寄帳では、惣畝数五五町一反六畝余のうち、本方四四町一反六畝余・天福てんぷく寺領別帳分二町二反余・成道じようどう寺拝領地六反であり、庄屋儀兵衛のほか、頭百姓三・小百姓七八がいた。


柿原村
かきばるむら

[現在地名]甘木市柿原

つつみ村の東、佐田さだ川中流右岸の台地に位置する。下座げざ郡に属し、北東は板屋いたや村、南東は佐田川を隔てて相窪あいのくぼ村。南端部を日田街道が通る。村の北端部に当村および板屋村夜須やす下淵したふち村との境界になる安見やすみじよう(休松山とも)がそびえ、同山上には秋月城の端城であったという中世の休松やすみまつ城跡がある(「続風土記」など)。枝郷に萩原はぎわら村があり(続風土記)、元和九年(一六二三)から秋月藩領。文明一〇年(一四七八)と推定される一〇月一〇日の渋川教直書状(「正任記」同月条)に「柿原」とみえ、渋川教直は当地にいた少弐政資の残党が神辺こうのえ(現佐賀県鳥栖市)に移動したので、同月一二日に攻撃に向かう予定であることなどを陶弘護に知らせている。


柿原村
かきばらむら

[現在地名]江府町柿原

現江府町の中央西端、北西流する日野川東岸に位置する。南西流して同川に合流する三谷みたに川上流部にあたり、集落は谷間に沿って細長く延びる。上流部に支村上柿原がある(伯耆志)。北西は根雨原ねうばら(現溝口町)。村名は柿の産地に由来すると考えられる(江府町史)。正徳元年(一七一一)の郷村高辻帳には「古ハ柿ケ原村」と注される。拝領高は五三石余、本免は六ツ六分。米子荒尾氏の給地であった(給人所付帳)


柿原村
かきばるむら

[現在地名]大任町大行事だいぎようじ

北流する彦山川の東岸に位置し、対岸は安永やすなが村、北は上今任かみいまとう村。東に立石たていし峠があり、下赤しもあか(現赤村)に越える。中世は柿原名とみえる。元和八年人畜改帳に村名がみえ、高一二〇石余、家数三七・人数六五(うち百姓四・名子九)、牛六・馬六。郷村高帳では高一五三石余、うち新田高三一石余。旧高旧領取調帳では高一五九石余。明治二〇年(一八八七)白土しらつち村・成光なるみつ村・元松もとまつ村・福田ふくだ村・秋永あきなが村・安永村と合併して大行事村となる。


柿原村
かきわらむら

[現在地名]御浜町柿原

尾呂志おろし川右岸にある。中世は阿田和あたわ庄荘司塩田氏領であったと考えられる。慶長六年(一六〇一)の検地帳(徳川林政史蔵)中立なかだち村の枝郷柿原とみえ、万治二年(一六五九)高を分け独立した(南牟婁郡誌)。新宮領で有馬組に属する。宝永五年(一七〇八)の新田畑屋鋪改帳(徳川林政史蔵)に七町余が記される。近世後期の家数五五(紀州新宮領分見聞記)

村を流れる尾呂志川の苞苴おんべの淵では、古くより毎年七月七日に鮎七五尾をとり、新宮阿須賀あすか神社に献上した。


柿原村
かきばるむら

[現在地名]南関町はら

小岱しようだい山の東南麓に位置し、東は坂下さかのした村、北は田原たばる村、南は南田原村と接する。天正一〇年(一五八二)七月二八日の龍造寺政家宛行状(小代文書)に「玉名郡之内柿原壱町六反」がみえ、田原などとともに小代氏に宛行われている。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると田一三町六反七畝余・畠屋敷一三町七反八畝余・屋敷筆数九、分米二四九石五斗余。同一三年の検地帳には「南柿原村」があり、田三町一反八畝余・畠屋敷三町一反六畝・屋敷筆数二、分米六一石五斗余、家数四・人数五、牛一、下ケ名に大臼山などがある。


柿原村
かきはらむら

[現在地名]宇和島市柿原

宇和島城下町の東北方、須賀すが川上流域の村。東は仙波せんばが峠、西は中間なかいだ村に接する。宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「柿原村 茅山有、谷川有、日損所」とある。

太閤検地の石高は四二六石三斗五升、耕地面積の比率は田七六パーセント、畑二四パーセントであったが、寛文検地では石高が四パーセント増加し、田七四パーセント、畑二六パーセントとなっている。「墅截」によると、村柄は「上」、耕地は田が「上ノ中」、畑は「中」、水掛りは「吉」。


柿原村
かきはらむら

[現在地名]益田市白岩町しらいわちよう

高津川支流の匹見ひきみ川下流右岸に位置し、東は小野おの村、南は匹見川を隔てて高浪こうなみ山がそびえ、西はすみ村、北は三角みすみ山がそびえる。江戸時代の支配の変遷は持石もちいし村と同じ。古高一八石余、寛永一四年(一六三七)の検地高五一石余(万手鑑)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android