栗野郷
くりのごう
桑原郡の北部を占めていた鹿児島藩の外城で、同藩直轄領。北は吉松郷、南は踊郷(現牧園町)・横川郷、西は菱刈郡湯之尾郷・本城郷(現菱刈町)で、東部は日向国諸県郡と接していた。郷内を川内川が流れ、西部を大口筋、東部を加久藤筋が縦断する。初めは小羽・栗野・北名・崎鶴・稲葉崎・上・広田・高田の八ヵ村で構成されていた(寛文四年郡村高辻帳など)。しかしのちに栗野村は米永村、北名村は北方村、崎鶴村は田尾原村とそれぞれ村名を変更し、小羽村は木場村、高田村は幸田村と表記が変わり、上村・広田村は合併して恒次村となったために、江戸時代中期以降、郷の所属村は木場・米永・北方・田尾原・稲葉崎・恒次・幸田の七ヵ村となった(「三州御治世要覧」など)。
栗野郷
くるすのごう
「和名抄」高山寺本は「久流須乃」、刊本は「久留須乃」と訓ず。史料により「栗栖郷」「栗栖野郷」とも記す。
平安京が営まれて以後、秋・冬の遊猟の適地として尊ばれた。「類聚国史」には延暦一四年(七九五)一〇月二八日に「遊猟於栗栖野」とあり、「日本後紀」延暦一五年一一月二九日条に「遊猟於栗栖野」、同じく弘仁五年(八一四)八月二六日条に「遊猟栗栖野」、「続日本後紀」天長一〇年(八三三)九月二五日条にも「天皇幸栗栖野遊猟」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 