日本大百科全書(ニッポニカ) 「桂村兵右衛門」の意味・わかりやすい解説
桂村兵右衛門
かつらむらへいえもん
(1765―1805)
江戸後期、常陸(ひたち)国信太(しだ)郡桂村(茨城県牛久(うしく)市)の義民。1804年(文化1)水戸街道牛久・荒川沖両宿場の助郷役(すけごうやく)課増反対一揆(いっき)の中心人物の一人。牛久宿問屋治左衛門(じざえもん)と同宿の人馬請負業の和藤治(わとうじ)らが企画した加助郷差村(かすけごうさしむら)願いに反対して、小池村勇七、同吉十郎と兵右衛門らが各村々に呼びかけ、多数の農民が女化原(おなばけはら)に集合。参加者は河内(かっち)・信太両郡55か村約6000人に上った。この一揆に対し、幕府は代官を派遣し、土浦、谷田部(やたべ)、佐倉などの諸藩兵も出動して鎮圧した。指導者3人はいずれも獄死する。1823年(文政6)に建てられた3人の供養塔が阿見(あみ)町(旧小池村)に現存する。このときの一揆が幕府の化政(かせい)改革の一因となった。
[佐久間好雄]