桜野村
さくらのむら
氏家村の東、五行川左岸に位置し、奥州街道が東西に走る。「那須記」によると天正元年(一五七三)氏家に出陣した那須資胤は、桜野城の糟屋又左衛門を攻め落し在家に放火したという。今宮祭祀録(西導寺蔵)には、同一七年に桜野郷の糟谷源兵衛の老母が死去したため、子息藤三郎が今宮神社の祭祀頭役を代わって勤めたとある。宇都宮氏旧臣姓名書には桜野村の村上姓五・平石姓一がみえる。
近世は初め宇都宮藩領、寛延二年(一七四九)下総佐倉藩領、安永三年(一七七四)上知されて再び宇都宮藩領となり幕末に至る。佐倉藩領時代には同藩の陣屋が置かれた。慶安郷帳では高二三五石余、田方一五五石余・畑方八〇石余。寛文一二年(一六七二)の検地帳(村上京子文書)によると高四二五石余、田五四町八反余・畑八六町三反余・屋敷三町五反余、田畑ともに下・下々が多く、田は上田七町六反余に対して三九町六反余、畑は上畑六町一反余に対して七〇町二反余を占める。
桜野村
さくらのむら
[現在地名]水俣市薄原
水俣川と久木野川の合流点の下流西側にあり、上流に深渡瀬村・井良迫村、下流に深川村がある。寛永一〇年(一六三三)の人畜改帳に葛渡村の小村として村名がみえ、屋敷数八、男三一・女一三、牛三・馬一が記される。同一六年の葦北郡地侍御知行割帳(徳富文書)にも「葛渡村内桜野村」とあり、五名の地侍がみえる。水俣手永に属し、「国誌」に辻堂二をあげる。明和八年(一七七一)には桜野の山は御留山とされている(藩法集)。近世末期に当村南方の台地上に桜野上場とよばれる新田が開発された。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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