日本歴史地名大系 「石寺村」の解説
石寺村
いしでらむら
中世にも石寺の地名が登場するが、当地は中世の梶山の地に含まれていた可能性がある。文保二年(一三一八)三月一五日と同月二三日の日付をもつ関東下知状并島津道義譲状案(樺山文書)によれば、同月一五日に島津道義(忠宗)は五男資久に「石寺嶋津」などで計三〇〇町を譲与しているが、この文書はのちの島津貞久による所領譲与(貞治二年四月一〇日「島津貞久譲状」島津家文書など)を背景とした南北朝期以降の作の可能性がある。南北朝末期、九州探題今川了俊に派遣された今川満範は、
石寺村
いしでらむら
応仁・文明の乱で六角氏宗家は西軍に属し、東軍方の京極勝秀・六角政尭連合勢と近江国内で角逐、文明元年八月二六日には「観音寺麓於石寺」において合戦となっている(同月二七日「山内政綱感状」古証文)。永正一六年(一五一九)には「くわんおん寺ふ本、いし寺一ゑん」などの旦那職が宗左衛門に売渡されている(同年二月七日「伊勢道者売券」輯古帖)。
石寺村
いしでらむら
石寺村
いしでらむら
石寺村
いしでらむら
石寺村
いしでらむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報