森の石松(読み)もりのいしまつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「森の石松」の意味・わかりやすい解説

森の石松
もりのいしまつ

江戸末期の博徒生年不詳。遠州(静岡県)森の木挽(こびき)職人繁蔵の子という説と、三河(愛知県)八名(やな)郡で生まれたという説がある。東海道で有名な清水次郎長(しみずのじろちょう)の子分であったことは人の知るところ。石松は次郎長の代参として金毘羅詣(こんぴらもう)でをした帰り、都田(みやこだ)の常吉(つねきち)家へ寄ったところ、御幸山鎌太郎(みゆきやまかまたろう)からの預り金を、常吉の兄、吉兵衛に一晩貸すことになる。その返済を迫ったところ、吉兵衛兄弟らによって1860年(万延1)6月1日の夜、閻魔堂(えんまどう)(静岡県浜松市浜北区道本(どうほん))のあたりで襲われ、殺されたといわれている。今日伝えられているように、目が片方で、大酒飲み、喧嘩(けんか)好き、正直者であったというのは、講釈師3代目神田伯山(はくざん)が有名にし、さらに浪曲師2代目広沢虎造(とらぞう)が人気者に仕立て上げたもの。本当は両目が見えたという。

[芳井敬郎]

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デジタル大辞泉プラス 「森の石松」の解説

森の石松

1949年公開の日本映画監督吉村公三郎脚本新藤兼人撮影:生方敏夫。出演:藤田進、殿山泰司轟夕起子朝霧鏡子飯田蝶子、笠智衆ほか。

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世界大百科事典(旧版)内の森の石松の言及

【山中貞雄】より

…《磯の源太・抱寝の長脇差》では,〈矢切一家の急を聞き,喧嘩の場所へ宙を飛んで走って行く源太の名乗り,“常陸の国は”“茨城郡”“祝生れの”“源太郎”――その切れ切れの名乗りの字幕表現と,人影なき堤の左から右上へと斜め横に切れ上って行く移動撮影画面との,交互的接続は,颯爽たる旅人の身を捨てて走ってゆく勇ましい気骨を感じさせ〉(岸松雄評),次いで第2作《小判しぐれ》(1932,嵐寛寿郎主演)では,映画史上伝説的になった〈“流れて”“流れて”“此処は”“何処じゃと”“馬子衆に問へば”“此処は”“信州”“中仙道”という民謡風の字幕と,川を流れて行く笠,美しい山野や街道の画面とのモンタージュにより時間・空間の変化を表現する方法〉(山本喜久男評)として,その〈話術〉を完成させる。トーキー時代に入ると,さらにこの〈話術〉を,例えば《丹下左膳余話・百万両の壺》(1935)で大河内伝次郎の左膳が絶対に行かないとだだをこねるように言い張るところを見せておいて,次の画面では左膳がもう道へ出て歩いている,といったコミカルな手法(〈逆手の話術〉などと評された)や,あるいは《森の石松》(1937)で黒川弥太郎の石松がみずから投げた1文銭が回っている間に敵を一太刀で切り倒すといった〈すごみのあるカット・バック〉にまで昇華する。 最後の無声映画《風流活人剣》(1934,片岡千恵蔵主演)あたりから,〈小津安二郎を思はせるやうな,時代劇の小市民映画〉(筈見恒夫評)が山中時代劇を彩るようになり(なお,実際に小津とは親交があり,その作品に強く影響されたといわれるが,小津自身は山中貞雄の〈話術〉を〈韻文的な作風〉と呼んでいる),《人情紙風船》を頂点とする〈長屋もの〉の系列に流れつく。…

※「森の石松」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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