博奕打(ばくちうち)ともいう。博奕を専業とする者。中世には博打(ばくち)がいるが,江戸時代には賭博者の集団である博徒が多数生まれた。
江戸時代の初期に賭博常習者として知られているものは旗本,御家人,浪人からなる旗本奴(はたもとやつこ)の一団である。彼らは〈かぶき者〉と呼ばれたように異様な風体で,庶民には迷惑な存在だった。旗本奴に対抗し町奴(まちやつこ)も賭博を日常とした者が多かった。治安対策上,彼らは1657年(明暦3)から86年(貞享3)にかけて弾圧され,ほぼ消滅してしまった。その後賭博を愛好する気風は火消人足や武家奉公の中間(ちゆうげん)に受け継がれた。中間たちは町方(まちかた)の詮索が直接及ばない武家屋敷内の中間部屋で賭博を盛んに行った。中間たちは賭博常習者であり,都市博徒の有力な予備軍であった。1793年(寛政5)には,武家の家来で徒士(かち)以上の者が博奕をした場合は遠島,足軽・中間以下で主人の屋敷で博奕をした者は遠島,他所へ行って博奕をした者は江戸払とすると定められた。このほか,目明し(めあかし)と呼ばれる取締役人の手先を務める者たちがあった。彼らは百姓,町人から選ばれる場合もあったが,無宿者や犯罪者の中から採用される者もあった。目明し自身が博徒であり,かつ博徒取締りの任に当たるという矛盾をもっていた。賭博専業者は種々な出身階層の者が入り混じっていたが,その多くは無宿者と呼ばれる戸籍のない者たちだった。無宿であっても無職でなく,雑多な職業に従事していた。無宿者は飢饉で周辺の村落から流入したり,火災で焼け出されて流浪し,やむなく戸籍を失った者が大半であるが,一部には罪を犯して逃亡したり,追放されて無宿になった者もあった。賭博に熱中した者が無宿になったり,無宿者が賭博専業になったりしたが,賭博専業になる者は都市住民の広範な賭博愛好者と賭博をしていた。町人をはじめ各階層から賭博を渡世とする者が絶えず補充された。
江戸時代の生産の主体は農業であり,農業人口が全体の8割を占め,圧倒的であった。都市に劣らず農村でも賭博は隆盛を極めた。〈博奕を心得ざる者は百人のうち十人までも有まじく候〉(著者不詳《上言》)などといわれ,ごく少額の賭博を行った。たいていの場合は賭金でなく,ぼろ布,股引(ももひき),手ぬぐい,茶わん,半纏(はんてん),合羽(かつぱ),わら布団などが賭けられた。賭博で生計をたてようとした者は,村々で賭博常習者を誘い込んで小さな集団をつくった。江戸中期になると,取締りに抵抗して,博徒相互の組織だった連係も生まれ,〈このごろの博奕打などは,遠方に仲間があって,その仲間とさえいえば知る人がなくとも仲間の頼もしずくで働くことになる〉(荻生徂徠《政談》)という状態になっていた。このころになると,博徒は一様に長脇差(刃渡り1尺8寸=約60cm以上)を帯びるようになっていた。武士以外が武器を持つことは禁じられ,違反者は死罪とされたが,博徒たちはさまざまな方法で長脇差を入手した。賭場での口論や旅回りの護身用に必要とした。〈長脇差を帯び,博徒渡世〉は博徒取締りの伺(うかがい)につねに記されている。博徒は賭博だけをしていたのではない。武器を手にして強請,旅人への襲撃,農婦の強奪,強姦,強盗もしばしば行った。そこには仁俠の道はまったくみられない。小集団の博徒は勢力争いによる統合や連係によって,しだいに大集団に組み入れられ,親分・子分の関係に組織され,なわばり(寺銭を徴収できる勢力範囲)の拡大に努めた。博徒の親分としては,国定忠次,清水次郎長らが有名であるが,芝居や講談によって,実像とは著しく異なる博徒像がつくられてきた。
→賭博
執筆者:森 安彦
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賭博(とばく)で世渡りをしている人々。博打(ばくち)打ち、渡世人(とせいにん)ともいい、賭(か)け事が庶民階級に浸透していった平安時代初期のころに発生している。博徒が組織化し武装したのは江戸時代で、幕府が1805年(文化2)に関八州取締所を設置して博徒の取締りを強化したため、江戸および近郊の博徒が上州付近に集まり幕府に対抗した。その後、幕府の取締りも効果がなく、20年後の1827年(文政10)ごろには鉄砲、槍(やり)などで武装し、ますます手のつけられない状態になった。博徒のことを長脇差(ながどす)というが、戦国時代に榛名(はるな)山の中腹にあった箕輪(みのわ)城の武士たちが好んで長い脇差(わきざし)を用いたところから、上州に集まった博徒たちが自然に長脇差で武装し、その別名となった。博徒の集団は一家をなし、統率者を親分といい、子分、孫分、兄弟分、叔父分、隠居という身分階級が定められていて堅い団結を信条としている。博徒の子分になるには、仲人(なこうど)をたて厳粛な儀式で、「一家のため身命を捨てても尽くすことと、親分の顔に泥を塗るような行為はけっしてしないこと」を誓う。博徒の歴史は賭け事の盛衰に伴い消長があるが、第二次世界大戦後は盛り場などを縄張りとする暴力組織と渾然(こんぜん)となり、区別がつかなくなっている。政府の取締りにもかかわらず、博徒の集団や暴力組織が存在することは、日本ばかりでなく、世界の文明国に共通しているが、反面、これらを必要とする要素が文明社会のなかにあることを見逃すことはできない。
[倉茂貞助]
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…18世紀の後半とくに天明の大飢饉以降,関東の農村における農民層の階層分化は激化し,巨大な富を蓄積する豪農層の成長する反面,潰れ百姓,水呑,日雇,出稼,職人,零細な農間余業者,あるいは無宿という,いわゆる没落農民が広範に形成されるようになった。とくに無宿,博徒,渡世人とよばれた遊民化した浮浪人層の増大は,領主支配の秩序を脅かす不穏勢力となってきた。 しかし,これまでの関東領国体制では,十分にそれらの新しい情勢に対応することができなかった。…
…惣作地については〈村並年貢諸役相務め,作徳の内種肥代を渡し,其余分は地頭へ納め,作手間は村役にいたす定法〉(《地方凡例録》)とされ,耕作および年貢諸役を村が負わされていたが,潰百姓の跡地の多くは耕作放棄され,手余地(てあまりち)となった。とくに中期以降,潰百姓が続出して手余地が増加し,貢租収入の減少をもたらし,他方,彼らが離村して博徒,無宿(むしゆく)者,都市細民などに化し,これが治安上の問題ともなり,政治問題化した。その対策が幕政改革の課題の一つとなり,人返し(ひとがえし)の令が出されたが実効を収めえなかった。…
※「博徒」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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