清水次郎長(読み)しみずのじろちょう

精選版 日本国語大辞典 「清水次郎長」の意味・読み・例文・類語

しみず‐の‐じろちょう しみづのジロチャウ【清水次郎長】

幕末から明治初期の侠客。駿河(静岡県)の人。本名山本長五郎。米商から博徒となり、東海地方縄張りとした。明治元年一八六八東海道総督判事伏谷又左衛門によって名字帯刀を許され、東海道探索方の任にあたる。また、のち囚人を使役して富士山麓の開墾を行なった。文政三~明治二六年(一八二〇‐九三

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デジタル大辞泉 「清水次郎長」の意味・読み・例文・類語

しみず‐の‐じろちょう〔しみづ‐ジロチヤウ〕【清水次郎長】

[1820~1893]幕末から明治初期の侠客きょうかく駿河の人。本名、山本長五郎。米商から博徒となり、東海一の親分となった。また、富士山麓さんろくの開墾などの社会事業も行った。
野村芳亭監督による映画の題名。大正11年(1922)公開。出演、勝見庸太郎、川田芳子ほか。

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改訂新版 世界大百科事典 「清水次郎長」の意味・わかりやすい解説

清水次郎長 (しみずのじろちょう)
生没年:1820-93(文政3-明治26)

江戸後期・維新期の俠客。駿河国有渡郡清水湊の海運業三右衛門の三男として生まれ,のち母の弟である米屋山本次郎八の養子となる。山本長五郎が本名で次郎長は通称。幼年期より粗暴の性質であった。1835年(天保6)に養父が死去し,家業を相続した。41年に博徒の仲間に入り俠名をあげ,多数の子分を従えた。縄張争いのため,尾張八尾ヶ獄の久六,甲州黒駒の勝蔵,伊勢の安濃徳らとたびたび抗争した。68年(明治1)に倒幕のため東上した東海道総督府より,道中探索方を命ぜられ,帯刀を許された。同年秋幕府の脱出兵が咸臨丸で清水湊に停泊,船内残留者が官軍の兵艦に襲われ,死体が海中に投ぜられた。次郎長はこれを収容し,巴川畔の向島の地に埋葬,山岡鉄舟の書になる〈壮士墓〉の碑を建てた。のち囚人を使役して,富士の裾野の開墾に従事するなど明治政府の施策に協力した。墓は清水市の梅蔭寺。
執筆者:

講談,浪曲の題材としての清水次郎長を定着させたのは,講釈師の3代目神田伯山であるが,この伯山のところに日参して稽古した浪曲師2代目広沢虎造のラジオ放送やレコードによって昭和初期の大衆にとって英雄の存在にまで高められた。《清水次郎長伝》の原典とされている伯山の講談は,主として天田愚庵の《東海遊俠伝》によっている。天田愚庵は,清水次郎長一家に寄宿したことのある歌人であるが,《東海遊俠伝》は,次郎長の存命中に,しかもその釈放運動に益するために書かれた気味もあり,もっぱら次郎長の功績をたたえることに終始している。それだけに,講談や浪曲に描かれた清水次郎長の人間像には,正統的な史実によっているとはいいかねる部分が多分にある。清水一家を組織して,抗争を重ねながら海道一の親分になりあがっていく過程が,義理と人情をふまえた人間的な魅力の一面だけでとらえられ,権力志向者としての側面に目をつぶっているのである。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「清水次郎長」の意味・わかりやすい解説

清水次郎長
しみずのじろちょう
(1820―1893)

江戸後期の博徒。本名は山本長五郎。駿河国(するがのくに)有渡(うど)郡清水港美濃輪(しみずみなとみのわ)(現、静岡市清水区美濃輪町)の船持船頭高木三寿郎の子として生まれる。生後まもなく叔父の米穀商「甲田屋」山本次郎八の養子となる。通称次郎長は次郎八方(かた)の長五郎で、相続人の意。幼くして悪党の評があり、家業のかたわら博奕(ばくち)に手を出し、賭場(とば)に出入りするようになる。1842年(天保13)賭場のもつれから博徒に重傷を負わせて他国に逃げ、無宿渡世(むしゅくとせい)に入る。以後清水に戻ったのちも、喧嘩(けんか)、博奕で次郎長一家の名をあげ、黒駒勝蔵(くろごまのかつぞう)、江尻熊五郎(えじりのくまごろう)らを抑えて400人余りの博徒の盟主になったと伝えられる。後代仁侠(にんきょう)の徒として神田伯山(かんだはくざん)、広沢虎造(ひろさわとらぞう)らにより講談・浪曲の世界でもてはやされたのは、次郎長の養子天田五郎(あまだごろう)(愚庵(ぐあん))が『東海遊侠伝』(1884)を刊行してからである。もっとも、1868年(明治1)東海道総督府判事、伏谷如水(ふせやじょすい)から旧悪を許され帯刀の特権を得、新政府の東海道探索方を命じられてからは、囚人を使役して富士の裾野(すその)を開墾したり、汽船を建造して清水港発展の糸口をつけたり、その社会活動は精力的でみるべきものが多い。明治26年病死、葬式には1000人前後の子分が参列したという。静岡市の梅蔭寺(ばいいんじ)に墓がある。

[藤野泰造]

『今川徳三著『日本侠客100選』(1971・秋田書店)』『今川徳三著『東海遊侠伝――次郎長一代記』(1982・教育社)』


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朝日日本歴史人物事典 「清水次郎長」の解説

清水次郎長

没年:明治26.6.12(1893)
生年:文政3.1.1(1820.2.14)
幕末維新期の侠客,明治期には実業家。本名山本長五郎。実父は雲不見三右衛門と称した駿河国(静岡県)清水湊の船持船頭。元旦生まれは不祥との伝説から叔父の山本次郎八(米問屋)の養子になる。悪さと無学の15歳時,隣国で甲斐国民大奮起という一揆が起こったのを尻目に家の金を持ちだし,浜松に米の買い占めに走ったのが幕末風雲録に次郎長登場の第1頁。天保10(1839)年,旅の僧に人相を見られ「命数25歳を出ず」といわれて,「じゃあ太く短く生きる」とヤクザになった。23歳のとき,喧嘩で相手を殺したと思い込み清水を出奔,三河の寺津治助にわらじを脱ぎ,喧嘩に明け暮れてあだ名はゴロ長。弘化2(1845)年,甲斐の紬文吉と駿河の和田島太右衛門の喧嘩を仲裁して売り出した。28歳で江尻大熊の妹おてふを娶る。嘉永3(1850)年,保下田久六を助勢し一の宮久左衛門と争った(この年国定忠治刑死)。 30歳代半ばは次郎長の危機の時代で,安政5(1858)年,甲斐の祐典仙之助と不和,讃岐の金比羅に詣でたのちの同6年,久六を殺害した。決戦前の金比羅詣では実父の金比羅信仰を継いだもの。万延1(1860)年,久六斬り祈願成就に森の石松を金比羅に代参させ,その帰路に石松が都田一家に殺されると,その仇を討って三河を勢力圏に収めた。このころ宿敵黒駒勝蔵が現れる。山岳地帯から富士川,天竜川を筏に乗って下ってくる黒駒の機動力に対抗して,縄張り外を転戦するプロの戦闘集団「清水二十八衆」を元治1(1864)年に創出。これは士のプロ戦闘集団新選組より早い。黒駒方の雲風亀吉との2次にわたる三河の抗争は平井村の役(1864年)と呼ばれ,博徒抗争史上かつてない殺戮戦だった。 東海道を名古屋までおさえた清水一家が伊勢路制圧に着手したのが,慶応2(1866)年の荒神山の喧嘩だ。神戸長吉と穴太徳の縄張争いで長吉方につき,大政(山本政五郎)の戦闘団と甲斐信濃制圧に転戦する大瀬半五郎の別働隊を三河の寺津で合流させ,吉良仁吉を大将に荒神山に向かわせる。仁吉戦死。その報復に次郎長は千石船2隻に手勢480人,銃40丁,槍170幹,米90俵をのせた戦略艦隊をもって伊勢に上陸し,穴太徳とその後ろ盾丹波屋伝兵衛を屈服させる。その武器調達は国定一家3代目田中敬次郎による。金比羅信仰の次郎長の海賊的性格である。海道一の次郎長の喧嘩は日本一の喧嘩,維新の内戦にぶつかってとまる。維新後は実業家になって,清水港の改修工事,富士山麓開墾,静岡茶を横浜に運ぶ蒸汽船会社の設立などをやりながら,フランス渡航を夢見つつ日清戦争の前年に死す。墓は清水の梅蔭寺。墓銘は榎本武揚の筆による。<参考文献>天田愚庵『東海遊侠伝』

(平岡正明)

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百科事典マイペディア 「清水次郎長」の意味・わかりやすい解説

清水次郎長【しみずのじろちょう】

幕末から明治にかけての侠客(きょうかく)。本名山本長五郎。駿州(すんしゅう)清水港の海運業者の子に生まれたが,米問屋次郎八の養子となり次郎長と略称。甲州黒駒の勝蔵,伊勢桑名の安濃徳(あのうとく)ら博徒とたびたび抗争した。1868年倒幕のため東上した東海道総督府より道中探索方に任じられる一方,海中に投ぜられた幕府兵の遺体を収容,埋葬している。維新後は囚人を使い富士裾野の開墾に従事するなど維新政府の政策に協力した。史実とは異なる部分も多いが,義理と人情にあつい次郎長の人間像は次郎長一家に寄宿したこともある歌人天田愚庵(あまだぐあん)が著した《東海遊侠伝》をもととして講釈師3代目神田伯山が定着させ,浪曲師2代目広沢虎造のラジオ放送,レコードによって全国に広められた。
→関連項目神田伯山

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「清水次郎長」の解説

清水次郎長 しみずの-じろちょう

1820-1893 幕末-明治時代の侠客(きょうかく)。
文政3年1月1日生まれ。駿河(するが)(静岡県)清水の船頭雲不見(くもみず)三右衛門の3男。母方の叔父の米問屋山本次郎八の養子となり,次郎長と略称。博徒となり,東海道を縄張りにして甲斐(かい)の黒駒勝蔵,伊勢(いせ)桑名の穴太徳(あのうとく)らとあらそう。維新後,山岡鉄舟らとまじわり,富士山麓の開墾,清水港の整備などにつくした。明治26年6月12日死去。74歳。墓所は梅蔭寺(清水市)。本名は山本長五郎。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「清水次郎長」の意味・わかりやすい解説

清水次郎長
しみずのじろちょう

[生]文政3(1820).1.1. 清水
[没]1893.6.12. 清水
幕末,明治の侠客。本名山本長五郎。清水港に生れ,米問屋山本次郎八の養子となる。養家が没落したので博徒となり,やくざ仲間で名をあげて清水に縄張りをもち,山梨の侠客黒駒勝蔵らと張合って伊勢の荒神山で対決して勝ち,東海道一円をその支配下に収めた。王政復古後,東征軍は進撃を有利にするために次郎長を懐柔し,苗字帯刀を許して探索方に用いた。のち開墾事業に従事。任侠の鑑のように伝えられ,浪曲や講談に取上げられている。

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