改訂新版 世界大百科事典 「日本映画」の意味・わかりやすい解説
日本映画 (にほんえいが)
動く写真の到来--最初の日本映画
日本における映画の歴史は1896年に始まる。この年,エジソンのキネトスコープが輸入され,神戸の神港俱楽部で初公開された。のぞき眼鏡式のものとはいえ,これが日本最初の映画興行である。次いで翌97年,リュミエールのシネマトグラフが大阪の南地演舞場で,エジソンのバイタスコープが大阪の新町演舞場で公開され,〈動く写真〉の人気はたちまち全国に広がった。この〈動く写真〉の到来はそれぞれの機械の発明からわずか2,3年後のことで,貿易業者たちが競って機械と上映作品を輸入した。明らかにそこには欧米文物への憧憬と新しい娯楽への好奇心がうかがえ,つまり映画は先進科学による見世物として人気を博したといえる。97年には日本人による映画製作が始められ,小西商店(写真器材輸入商)の浅野四郎と三越写真部の柴田常吉が,日本橋や浅草の風景,当時の人気スターといえる芸者の踊りなどを撮影し,作品は次々公開された。99年に広目屋(広告代理店)が東京の歌舞伎座で催した〈日本率先活動大写真〉はそれらの本格的興行で,映画巡業の創始者であり,また最初の人気弁士でもある駒田好洋が説明を行った(〈活弁〉の項目を参照)。
日本最初の劇映画《稲妻強盗》
同じ99年,柴田常吉は広目屋の依頼で,強盗が刑事に捕らえられるという内容の《稲妻強盗》を俳優を使って撮るとともに,9世市川団十郎と5世尾上菊五郎の歌舞伎《紅葉狩》を歌舞伎座の依頼で撮影し,前者は日本最初の劇映画とされ,後者は現存する最古の日本映画となった。映画興行はこのころより盛んになり,初めは寄席や見世物小屋で行われたが,早くも1897年には浅草六区に,バラック建ての小屋ながら日本シネマトグラフ館という映画館がつくられ,やがて1903年,同じ浅草六区の電気館が最初の本格的映画館となった。
風景と戦争
上映される作品は風景映画とでもいえるものがまず多く,内外の風景を実写しただけの映画を見ることが,〈動く写真〉によるいながらの観光として人気を呼んだ。《紅葉狩》につづく《二人道成寺》《鳰(にお)の浮巣》などの歌舞伎の実写,人気芸者の踊りや大相撲の実写がもてはやされたのも同じ理由であろう。もう一つ,大人気を博したものに戦争映画がある。最初,欧米の戦争記録映画が数多く輸入されていたが,1900年の清国の義和団の乱以降,日本人による戦争実写作品がつくられ,04年には日露戦争のさまざまな実写作品が各地で公開された。初期の映画は風景と戦争を二大テーマにして隆盛したといえる。08年には吉沢商店が東京目黒に日本最初の撮影所を建て,09年には日本最初の映画雑誌《活動写真界》が発行された。1909年7月31日付の《万朝報(よろずちようほう)》は〈活動写真の全盛〉と題する記事で,〈近来活動写真の流行は殆んど極点に達して居る。昨日まで出来た常設館の数は東京市内だけでも七十ヶ所以上に出で,興行資金に数十万円を運転してゐるとの事だ〉と書き,8月9日付の続稿では〈恁くも盛に流行して居る活動写真の材料を差し替引き替供給してゐる〉のは〈全国で僅か三人〉だとして,横田商会の横田永之助(1872-1943),Mパテー商会の梅屋庄吉,吉沢商店の河浦謙一の名を挙げている。翌10年にはこれに福宝堂が加わって,4社による映画の輸入・製作・配給がいよいよ盛んになった。各社とも撮影所をもったため,風景や戦争や白瀬中尉の南極探検などの実写作品のほかに,劇映画が多くつくられるようになり,それらも歌舞伎劇や新派劇をほとんどそのまま実写したようなものではあったが,弁士の説明によるドラマ性の盛上げもあって,多大の観客を集め,そのなかから最初のスター尾上松之助を生み出すとともに,日本映画の主流は実写作品から劇映画へと移っていった。
牧野省三と日活--映画企業の始まり
松之助映画のブーム
1912年,吉沢商店,横田商会,Mパテー商会,福宝堂の4社が合併して,日本活動写真株式会社(日活)が誕生した。映画企業の本格化の始まりである。日活は京都と東京で映画製作を開始し,牧野省三が京都での中心となった。すでに1908年以来,横田商会のもとで劇映画づくりをつづけて,最初のスター尾上松之助を生み出した牧野省三は,日活成立後,日活京都撮影所のプロデューサー・監督として松之助映画をつくりつづけ,その人気たるや一世をふうびして,初期日活の地盤を固めた。田中純一郎著《日本映画発達史》によれば,日活は〈日本の興行マーケット(1917年6月,活動之世界社調査)339館の内,過半数の177館に松之助映画を上映〉したとのことで,松之助映画の人気の絶大さがうかがえる。牧野省三・尾上松之助コンビによる作品数は,横田商会時代を含めて約500本に達し,ほぼ1週1本の割合でつくられたことになる。松之助映画は歌舞伎や講談本に材をとった英雄,豪傑,俠客,忍術使いの活躍譚で,単純な筋立てのものであったが,牧野省三の演出がそれに映画的興趣を盛り込んだ。この間,11年,フランスの探偵活劇《ジゴマ》がブームとなり,12年ころには実演と映写を組み合わせた連鎖劇が流行し,15年以降,アメリカの連続活劇が大人気を博したが,牧野省三の映画づくりも,それらのもつ魅力のあり方と無縁ではなかったと思われる。牧野省三は20年,人気で高慢となった尾上松之助を牽制する意味もあって,松之助映画を日活京都の〈第1部〉とし,市川姉蔵を主役とする同工異曲の映画を〈第2部〉としてつくりはじめつつ,翌21年,日活から独立して,やがて時代劇革新の大きな担い手となる。プロデューサーおよび監督として,映画を実写から劇作品へと飛躍的に発展させ,科学的見世物の域から確固たる大衆娯楽の座へすえたことから見れば,牧野省三は,単に草創期の日活で大きな功績を果たしただけではなく,日本映画全体の礎を築いたといってよい。牧野省三がときに〈日本映画の父〉と呼ばれるのは,それゆえのことである。
旧劇と新派
日活は一方,東京の向島撮影所で,新派の舞台の映画化作品をつくった。それらの現代劇が〈新派〉と呼ばれたのに対し,松之助映画などの時代劇は〈旧劇〉と称される。向島の新派は,1914年の《カチューシャ》の大ヒットにより勢いを得て,ぞくぞく量産され,18年には《金色夜叉》《不如帰》《生ける屍》をヒットさせ,立花貞二郎,関根達発,山本嘉一,藤野秀夫,衣笠貞之助,東猛夫らを人気スターにした。
日本最初のカラー映画
14年,日活につづく映画大企業として,天然色活動写真株式会社(天活)が生まれた。これは,日活成立後まもなく日活を脱退し,それぞれに映画製作を始めた旧福宝堂系の小林喜三郎と山川吉太郎が創立した会社で,沢村四郎五郎(1877-1932),市川莚十郎を主役に日活の松之助映画と同様の旧劇を量産するとともに,新派の連鎖劇に力を入れた。また,ごく初期だけのことながら,その社名にふさわしくカラー映画の製作を目ざし,日本最初のカラー劇映画の試作品《義経千本桜》(1914。吉野二郎監督)を生み出した。小林喜三郎は16年,天活を離れて小林商会を設立,井上正夫主演の《太尉の娘》など新派のヒット作をつくった。天活は,旧劇では成功したものの,新派では日活と小林商会に圧倒され,数年のうちに業績不振に陥った。そこへ出現したのが帰山教正(かえりやまのりまさ)(1893-1964)の〈純映画劇〉である。
帰山教正と純映画劇運動
天活の映写技師兼外国部員であった帰山教正は,陰ぜりふの廃止と字幕の使用,女形に代わる女優の採用,演出法の改革に基づく〈純映画劇〉運動を提唱,新劇の村田実,青山杉作らと映画芸術協会を組織して,天活首脳部を説得し,18年,《生の輝き》《深山(みやま)の乙女》をつくった。2作品は意欲にあふれたもので,最初の映画女優・花柳はるみを生み出したが,商品性に乏しいという理由から翌年秋になってようやく公開され,革新性は認められつつも,外国映画の模倣の濃い試作にすぎないと受け止められて,興行的にも失敗した。映画芸術協会は,このあと,数本を製作して解散することになる。また,天活自体も,業績不振から立ち直れず,20年創立の国際活映株式会社(国活)に吸収された。国活は沢村四郎五郎の旧劇や井上正夫の新派で一時期好調であったが,23年には日活と合併し,翌24年,合併解除ののち解散した。
帰山教正の〈純映画劇〉運動は,それ自体としては失敗しつつも,さまざまな刺激を各方面に与え,〈活動写真〉が〈映画〉に生まれ変わっていく大きな契機となった。保守的な映画づくりで安泰に生きのびてきた日活にも,その影響は現れた。たとえば,1920年に日活が女優採用に踏みきったことである。また,先に新派《生ける屍》で新鮮な映画手法を見せた田中栄三が,22年,東京下町の老舗の没落を描いた《京屋襟店(えりみせ)》によって,日本人の生活と欲望をなまなましく表現した画期的な映画作品を出現させ,その姿勢を翌年の《髑髏(どくろ)の舞》でも貫いた。前者はまだ女形を使っているが,日本でほとんど最後の女形映画といわれ,後者にはやがてスター女優となる岡田嘉子,夏川静江(のち静枝)が出演している。こうして日活は,〈活動写真〉の時代から〈映画〉の時代へ入っていく。
小山内薫と谷崎潤一郎
小山内薫と松竹
〈活動写真〉が〈映画〉に生まれ変わっていくに際し,大きな役割を果たした人物の一人に,〈新劇の父〉小山内(おさない)薫がいる。1920年,松竹が演劇界から映画界への進出を目ざして松竹キネマ合名社(のち株式会社)を設立したとき,小山内薫は理事として招かれるとともに松竹キネマ俳優学校の校長に就任,東京蒲田の撮影所が開設されるや,総監督を任ぜられた。だが,小山内薫の映画改革志向はたちまち松竹内部の商業主義派と対立し,小山内薫は新設の松竹キネマ研究所を任されて,独自に映画づくりを始めることになった。俳優学校から研究所へかけて,小山内薫のもとには,監督の村田実,牛原虚彦(きよひこ),島津保次郎,脚本・監督の伊藤大輔,脚本の北村小松,俳優の鈴木伝明(当時は東郷是也),沢村春子,南光明,英(はなぶさ)百合子などが集まった。こうした人材によってつくられたのが,松竹キネマ研究所の第1回作品《路上の霊魂》(1921)である。小山内薫総指揮・牛原虚彦脚本・村田実監督によるこの映画は,シュミットボンの《巷の子》とゴーリキーの《どん底》に取材したもので,対立する父と子やどん底の人々を並行的に描く手法,寛容と不寛容という主題において,明らかにD.W.グリフィスの《イントレランス》(1916)の影響が見られ,日本映画としては画期的なものであったが,翻訳劇臭の強さなどが目だって,実験的試みの域を出ず,興行的にも不振に終わった。松竹キネマ研究所は,つづいて牛原虚彦の《山暮るゝ》と村田実の《君よ知らずや》をつくったのち,21年夏に閉鎖された。小山内薫による映画革新の動きは実に短期間のものであったが,映画界に刺激をもたらし,次代の日本映画を担う人材を育てたことで大きな意義をもつ。
これとは別に松竹は,1920年の《島の女(むすめ)》(木村錦花監督)を皮切りに商業主義による映画製作にとりかかった。この松竹第1回作品の撮影をしたのが,ハリウッド帰りのカメラマン・ヘンリー小谷で,蒲田撮影所のスタッフにアメリカの撮影技術を伝授し,みずから監督もした《虞美人草》(1921)はヒットして,主演の栗島すみ子を最初のスター女優にした。《虞美人草》は内容的には旧来の新派となんら変わらなかったが,松竹はこの路線の映画を量産するに至り,ヘンリー小谷は早くも21年に松竹を離れた。
谷崎潤一郎と大活
新劇の小山内薫とともに,文壇の若き鬼才・谷崎潤一郎が,当時の映画革新の動きに大きな役割を果たした。松竹キネマ設立と前後して,1920年,大正活映株式会社(大活)が浅野財閥の浅野良三によって創立され,アメリカ映画の輸入を手がけるとともに,近代的感覚による映画の製作を始めた。そのとき文芸顧問として迎えられたのが,映画に深い関心をもっていた谷崎潤一郎である。大活ではもう一人,松竹同様,ハリウッド帰りの俳優・トーマス栗原(1885-1926)を監督として迎え,谷崎潤一郎原作脚色・トーマス栗原監督《アマチュア俱楽部》(1920)を第1回作品として世に出した。この映画は従来の新派とは大きく違った近代的な明朗コメディで,水着1枚の女優(葉山三千子)が夏の海辺をはねまわり,クローズアップやカットバックなどの手法を駆使した斬新なものであったが,当時の観客には受けなかった。谷崎・栗原コンビは,一転して日本的な題材に取り組み,泉鏡花原作の《葛飾砂子》(1920)や上田秋成原作の《蛇性の淫》(1921)をつくった。しかし,ともに意欲的な作品ながら,近代的な演出と内容とがうまくかみ合わず,失敗に終わった。大活はこの間,ほかに数本の短編をつくっただけで,《蛇性の淫》を最後に製作を中止し,22年には松竹に合併吸収された。こうして大活は短命に終わったが,谷崎潤一郎のもとでの新しい映画づくりのいぶき,トーマス栗原のもたらしたアメリカ式演出法,そしてそこから次代の監督,内田吐夢,二川文太郎,井上金太郎,俳優の岡田時彦(当時は高橋英一)らが育っていったことによって,日本映画史に大きな足跡をしるした。
撮影所の興亡
関東大震災前後
吉沢商店が東京目黒行人坂に日本最初の撮影所を建てた(1908)のにつづいて,Mパテー商会が東京大久保百人町に(1909),福宝堂が東京日暮里花見寺に(1910),横田商会が京都二条城西南櫓下に(1910),次々撮影所を建設した。以後,映画の隆盛に伴ってさらに多くの撮影所が生まれ,〈夢の工場〉と呼ばれるとともに,時代の推移と製作会社の転変に応じて興亡を繰り広げていく。撮影所の興亡史はそのまま日本映画の歴史といっていいだろう。
1912年,上記の4社が合併して,日活(日本活動写真株式会社)が誕生したことは既に述べたが,その直前に横田商会は京都法華堂に撮影所を移していたので,日活は,その法華堂撮影所と旧吉沢商店の目黒撮影所とで映画製作にとりかかった。その後,東京向島に新スタジオを建てて目黒を閉鎖(1913),また京都でも法華堂から大将軍の新スタジオに移って(1916),以後,向島・大将軍の時代がつづいたが,関東大震災後,向島撮影所が閉鎖された(1923)。やがて大将軍撮影所が京都太秦(うずまさ)多藪町の新スタジオへと移転し(1929),東京調布の元日本映画株式会社の多摩川撮影所を買収(1934),日活は太秦・多摩川の時代に入った。しかし,42年,戦時下の映画新体制による統制によって,日活は大映(大日本映画製作株式会社)へと統合され,太秦撮影所,多摩川撮影所ともに大映撮影所となった。
1914年創立の天活(天然色活動写真株式会社)は,東京日暮里元金杉と大阪鶴橋小橋の両撮影所で映画製作を始めた。日暮里撮影所は日活脱退組による常盤商会が建て(1912),それと提携した東洋商会が使っていたもので,鶴橋小橋撮影所は東洋商会の建てたものである。やがて大阪の撮影所は小坂の新スタジオに移り(1916),東京の撮影所も,日暮里撮影所が全焼したので,巣鴨庚申塚の新スタジオへ移転した(1919)。しかし,20年,天活は国活(国際活映株式会社)に買収された。国活は巣鴨撮影所と東京角筈十二社に建てた新スタジオとで映画製作を開始したが,まもなく角筈撮影所を閉鎖(1921),25年に解散した。この間,元天活の小坂撮影所は帝国キネマにひきつがれ(1920),天活から国活へと移った巣鴨撮影所はやがて河合映画社に買収された(1928)。
20年には三つの映画会社が誕生した。松竹キネマ,大活,帝キネである。このうち大活(大正活映株式会社)の映画製作は,横浜山下町に建てた撮影所で始められたが,21年に終わった。
松竹--蒲田から大船へ
松竹(1920年創立の松竹キネマは37年に松竹株式会社に統合される)は,東京蒲田に建てた撮影所で映画製作を開始し,〈蒲田調〉の名をもたらした。一方,京都下加茂にも新スタジオを建設(1923),この下加茂撮影所はいったん閉鎖された(1925)が,阪東妻三郎プロダクション(阪妻プロ)や衣笠貞之助の衣笠映画聯盟が松竹との提携作品をつくるために使ったのち,ふたたび松竹時代劇製作の拠点となり,松竹は蒲田・下加茂の時代へ入った。やがて神奈川県大船に新スタジオが生まれるとともに,蒲田撮影所は閉鎖され(1936),〈蒲田調〉は〈大船調〉へとひきつがれた。また,京都太秦の元マキノ・トーキー撮影所を買収し(1940),松竹の京都第二撮影所とした。
京都太秦と東京大泉
帝キネ(帝国キネマ演芸株式会社)は,元天活の小坂撮影所で映画製作にとりかかったあと,兵庫県芦屋に新スタジオを建て(1923),関東大震災の際には,東京における各社の映画製作がとだえたのを機に,小坂・芦屋の両撮影所で低予算の娯楽映画の大量生産を行い,また一時,元国活の巣鴨撮影所も使った。1925年には争議によって帝キネは四分五裂状態になり,脱退組による東邦映画製作所が小坂撮影所で,同じくアシヤ映画製作所が芦屋撮影所で,それぞれ映画製作を始めたが,やがて事態はおさまり,帝キネは大阪長瀬に新スタジオを建てるに至った。しかし,資金難から松竹傘下に入り(1929),長瀬撮影所の全焼(1930)によって,帝キネの映画製作は元阪妻プロの太秦撮影所へ移った。31年,帝キネは経営不振のため,松竹の資本を得て,新興キネマ株式会社に生まれ変わり,以後,日活,松竹につぐ大会社となっていった。新興キネマは京都太秦のほか,東京大泉に新スタジオを建設した(1935)。そして42年,日活と同様,大映へ統合され,太秦撮影所,大泉撮影所ともに大映撮影所となった。
マキノから松竹へ
1921年,日活京都撮影所長の牧野省三が独立して,京都等持院にスタジオを建設,映画製作を始めた。会社は牧野教育映画製作所からマキノ映画製作所へ,さらにマキノキネマへと変わったが,24年,東亜キネマに買収合併された。東亜キネマは1923年,兵庫県甲陽の甲陽キネマ撮影所を買収して設立された会社で,甲陽と等持院で映画製作を行ったが,経営不振に陥って甲陽撮影所を閉鎖(1927),同撮影所は貸しスタジオになった。そして31年,東亜キネマは東活映画社となって等持院で映画製作をつづけたものの,32年に解散,等持院撮影所は消滅した。この間,牧野省三は1925年,根岸寛一,直木三十五らの設立した聯合映画芸術家協会に参加したのを機に,東亜キネマから独立,京都御室天授ヶ丘に新スタジオを建ててマキノプロダクションを興し,ふたたび映画製作に乗り出して,やがて名古屋道徳の東海撮影所をマキノ中部撮影所とするに至った(1927)。だが,牧野省三の死(1929)以後,マキノ映画の勢いは衰え,32年,御室撮影所が全焼,その跡地に建てられたバラックに新会社・正映マキノが生まれたが,数ヵ月で解散し,御室撮影所はその後,東活映画社の後身・宝塚キネマに使われたのち,34年に崩壊した。やがて35年,マキノ映画製作所が設立され,京都太秦に新スタジオを建設,36年,甲陽映画と合併してマキノ・トーキーとなったが,37年に解散した。太秦撮影所はその後,今井映画に使用され,40年,松竹に買収された。
プロダクションと撮影所
このほか,1920年代後半から30年代にかけては,数多くの映画会社が各地の撮影所を舞台に興亡を繰り広げた。
1925年,高松プロダクションが東京吾嬬町に撮影所を建てて映画製作を始めたが,27年に解散,撮影所は貸しスタジオになった。
同じ1925年に設立された阪東妻三郎プロダクションは,高松吾嬬撮影所で映画製作にとりかかったのち京都太秦蜂ヶ岡に新スタジオを建設した(1926)が,やがて松竹傘下に入り,30年,阪妻プロが去って,撮影所は帝キネが使用した。阪妻プロは新たに千葉県谷津海岸に新スタジオを建てた(1931)が,35年に解散し,撮影所は一時,新興キネマに使用された。
1927年には高木新平プロダクションが設立され,京都吉田山下に新スタジオを建てたが,まもなく解散した。
同じ1927年,市川右太衛門プロダクションが設立され,奈良あやめ池遊園地に撮影所を建設,映画製作を始めたが,36年に解散した。撮影所は全勝キネマによって使用されたが,やがて全勝キネマは松竹傘下に入り,興亜映画となった(1941)のち,松竹に合体吸収された。
1928年には,河合映画が東京三河島町屋の撮影所で映画製作を始めるとともに,元国活の巣鴨撮影所を買収した。やがて33年,河合映画を買収して大都映画社が創立されたが,42年,大都は日活・新興キネマとともに大映へ統合され,巣鴨撮影所は閉鎖された。
同じく1928年に設立された片岡千恵蔵プロダクションは,京都双ヶ丘の貸しスタジオで映画製作にとりかかったのち京都嵯峨野に新スタジオを建てた(1929)が,35年に解散した。
さらに1931年,月形龍之介プロダクションが奈良生駒山ろくに新スタジオを建設したが,32年に解散,撮影所は富国映画社が使用したが,同社もまもなく解散した。
1934年には第一映画社が創立され,京都嵯峨野の千恵プロ撮影所で映画製作を開始したあと,同撮影所の隣に新スタジオを建てた(1935)が,36年に解散し,新設の撮影所は貸しスタジオになり,やがて壊された。
1935年には,極東映画が元東亜キネマの甲陽撮影所で映画製作を始め,大阪古市に白鳥撮影所を設立した(1936)のち,37年,極東キネマとして新発足したが,40年,大宝映画に買収され,同社は41年に映画製作を中止するに至った。
東宝の設立とトーキーの歩み
1930年代には,やがて日活,松竹と並ぶ大会社になる東宝が生まれた。東宝成立は日本のトーキー映画の歩みとともにある。31年,東京砧(きぬた)に設立された写真化学研究所Photo Chemical Laboratory(略称PCL)は,国産トーキー社という別会社をつくってトーキー・スタジオを建設,32年,株式会社となって,同じ砧に新スタジオを建て,トーキー施設提供を始め,33年には別会社のPCL映画製作所で映画製作にもとりかかった。一方,1932年に設立されたJOスタジオが,京都太秦蟲の社にトーキー・スタジオを開設,別会社の太秦発声で映画製作を始めた。36年,PCLとJOスタジオの提携によって東宝映画配給が設立され,37年,3社が合併して東宝映画株式会社となり,PCLとJOスタジオの撮影所は東宝の東京撮影所と京都撮影所となった。やがて京都撮影所は,映画会社統合の動きのなかで閉鎖された(1941)。この間,1935年に設立された東京発声映画製作所が,東京世田谷に新スタジオを建て,41年,東宝の傘下に入った。
戦中・戦後の撮影所
こうして第2次世界大戦中の統合(1942)によって,映画会社は松竹,東宝,大映となり,戦後の日本映画の歩みは3社の撮影所において始まった。すなわち,松竹の大船および下加茂・太秦,東宝の砧,大映の多摩川(元日活)・大泉(元新興)および太秦(元日活と元新興)の各撮影所である。
このうち大映(1945年に大日本映画製作株式会社から大映株式会社に社名変更)の大泉撮影所は,戦時中に軍需工場に売却され,敗戦とともに閉鎖されていたが,1947年,貸しスタジオの太泉スタジオとなり,やがて太泉映画となって映画製作に乗り出した。大映は東京多摩川と京都太秦の東西撮影所で映画製作をつづけ,戦後映画史に大きな足跡を残したが,71年倒産し,東西撮影所は組合員管理下に置かれ,74年に会社が大映映画として再出発したのち,77年の合理化によって両撮影所は分離独立した。
1947年,東横映画(1938創立)が京都太秦の大映京都第二撮影所(元新興)を使って映画製作に乗り出し,49年,東横映画,太泉映画の2社の作品を配給する東京映画配給株式会社(東映)が生まれ,この3社が合併して,51年に東映株式会社が発足した。以後,東映は太秦の京都撮影所と大泉の東京撮影所を両輪として,松竹,東宝,大映と並ぶ大会社に発展していく。また,57年には東京撮影所の隣に動画専用スタジオを建設した。
東宝では1946年から48年にかけて労働争議の嵐が吹き荒れ,砧の撮影所は製作中止と再開を繰り返した。その間,47年,新東宝映画製作所が分裂,誕生し,世田谷成城の東宝第二撮影所と第三撮影所(元東京発声)で映画製作を始め,48年,株式会社新東宝となって,両撮影所を東宝から譲渡され,東宝,松竹,大映,東映と並ぶ大会社として映画製作をつづけたが61年に倒産した。新東宝の撮影所は国際放映となり,テレビ映画の製作に乗り出した。東宝はこの間,兵庫県宝塚にスタジオをもつ宝塚映画(1951),東京目黒上大崎にスタジオをもつ東京映画(1952)を傍系会社としてつくった。その後,東京映画は世田谷船橋の連合映画スタジオに移転(1961),目黒撮影所にはやはり東宝系の日映新社が入った。
松竹の京都撮影所は下加茂と太秦の2ヵ所にあったが,下加茂撮影所は1952年,傍系の京都映画に譲渡されて,松竹優先の貸しスタジオとなり,また,多くの松竹時代劇を生み出した太秦撮影所は65年に閉鎖され,松竹の撮影所は大船だけとなった。
日活は,戦時中に製作部門が大映に統合され,興行会社としてのみ存続していたが,1954年,東京調布の新設した撮影所を拠点に映画製作を再開した。これによって,1950年代後半,大手の映画会社は6社となり,戦後日本映画は黄金期に入っていった。
日本映画の衰微と撮影所の末路
しかし,その後,新東宝の倒産(1961),大映の倒産(1971),日活の一時製作中止と〈ロマン・ポルノ〉路線への転向(1971)と,日本映画の衰微の勢いは深まって,撮影所は危機に陥った。そこでとられたのが広大な撮影所の切売りで,東映の京都撮影所の一部は観光施設・太秦映画村に(1975),松竹の大船撮影所の一部はショッピング・センターに(1976),日活の調布撮影所の一部はマンションに(1977)なった。いまではだれも撮影所を〈夢の工場〉とは呼ばない。
蒲田調と日活調
〈活動写真〉が〈映画〉へと変わった1920年代において,日本映画は三つの大きな渦を中心に動いていった。一つは時代劇で,迫真的なチャンバラで観客を魅了するとともに,映画としての表現を多様かつ高度に繰り広げた。あと二つは,〈蒲田調〉と呼ばれる作風の松竹映画と,これに対して〈日活調〉と呼ぶことのできる日活映画であり,ともに現代劇が中心になっている。
松竹の蒲田撮影所からは,《虞美人草》(1921)で人気スターになった栗島すみ子につづいて,川田芳子,五月信子らの人気女優が続出し,日本映画における〈スター・システム〉誕生の転機となったことで知られる栗島・川田・五月共演の《母》(1923。野村芳亭監督)を一つの頂点とするメロドラマが多くつくられた。それらは従来の新派とあまり変わらなかったが,観客に受けて,その延長で流行歌《枯すすき》をとり入れた(無声映画だったので,歌詞が字幕に出て,弁士あるいは歌手が歌ったといわれる)岩田祐吉・栗島すみ子主演《船頭小唄》(1923。池田義信監督)がつくられて大ヒットし,〈小唄映画〉が各社で量産されることとなり,なかでも帝キネの《籠の鳥》(1924。松本英一監督)は大当りして,主演の沢蘭子を人気スターにした。やがて蒲田撮影所が関東大震災で一時閉鎖ののち,1924年に再開されるや,撮影所長が野村芳亭(ほうてい)(1880-1934)から城戸(きど)四郎に変わり,城戸四郎は新派的なものを排し,明朗で健康なユーモアと笑いに満ちた近代的感覚の映画づくりを目ざすとともに,母性愛を主とした女性映画の製作を推進した。これが〈蒲田調〉の始まりであり,小市民映画の先駆といえる島津保次郎《日曜日》(1924),田園風景のなかに人生の哀歓を情緒豊かにつづった五所平之助《からくり娘》《村の花嫁》(ともに1927),スポーツ俳優・鈴木伝明を主演に快活な青春を描いた牛原虚彦《陸の王者》《彼と東京》《彼と田園》(ともに1928),近代人の情感をユーモラスに描いた小津安二郎《大学は出たけれど》(1929),《東京の合唱》(1931),《生れてはみたけれど》(1932)などがつくられた。とくに小津安二郎の作品は小市民の平凡な日常生活を描いて〈小市民映画〉の名を生んだが,リアリズムで近代人の病める精神を見つめる点で,30年前後に現れた〈傾向映画〉の一群(〈プロレタリア映画〉の項目を参照)と表裏の関係にあるといえる。
これに対し,日活の向島撮影所では,田中栄三の映画革新のあと,自然主義リアリズムによる鈴木謙作《人間苦》(1923)や溝口健二《霧の港》(1923)がつくられたが,関東大震災後,向島撮影所は閉鎖された。日活の映画づくりの舞台は京都大将軍へと移って,村田実(1894-1937)が抒情と心理的リアリズムに満ちた浦辺粂子主演《清作の妻》《お澄と母》(ともに1924)や岡田嘉子主演《街の手品師》(1925)で一段と名を高め,阿部豊が岡田時彦主演《足にさはった女》(1926),《彼をめぐる五人の女》(1927)でハリウッド仕込みのモダンな作風を示した。また,溝口健二が下町情緒にあふれた《紙人形春の囁き》《狂恋の女師匠》(ともに1926)から《日本橋》(1929),《滝の白糸》(1933)へと独自の作風を深める一方,内田吐夢が軽快な喜劇や浅岡信夫・広瀬恒美主演の活劇をつくるとともに,《生ける人形》(1929)で傾向映画の口火を切り,同じ精神で風刺時代劇《仇討選手》(1931)をつくった。当時,松竹の城戸四郎に対して,日活では根岸寛一が大プロデューサーとして映画づくりの中心となった。
〈蒲田調〉〈日活調〉は近代的感覚にあふれることにおいては共通しているが,前者が女性的,後者が男性的という点で大きく異なる。また,東京でつくられた〈蒲田調〉と京都でつくられた〈日活調〉を比較して,筈見恒夫はその著《映画五十年史》で,〈概して,日活現代映画に現はれた東京風俗がロマンチシズムに満たされ,蒲田映画の東京風俗がリアリスティックなのは,遠くから望むものが美化される心理であらう〉と述べ,日活出身の監督たちを〈理想派〉,松竹の監督たちを〈現実派〉と呼んでいる。
スター・プロ
映画の興隆のなかで人気スターとなった俳優は,独立してみずからの主宰する会社を興し,独自の映画づくりを始めるに至った。いわゆるスター・プロダクション(スター・プロ)である。その最初は1925年設立の阪東妻三郎プロダクションで,以後,主として時代劇スターによるスター・プロが続出し,サイレント末期の時代劇隆盛を担った。女優でみずからのプロダクションを興した最初は五月(さつき)信子(1894-1959)であるが,演劇活動を主とするもので,女優による(しかも現代劇の)スター・プロは入江たか子のそれが初めである。以下に,スター・プロを興した俳優名(プロ設立と解散の年,専用に建てた撮影所がある場合はその場所)を列記する。
(1)阪東妻三郎(1925-36。京都太秦蜂ヶ岡,千葉県谷津海岸)
(2)五月信子(1925-45)
(3)実川延松(えんしよう)(1925-?)
(4)勝見庸太郎(1926-31)
(5)片岡松燕(1926-27)
(6)市川右太衛門(1927-36。奈良あやめ池)
(7)高木新平(1927-27。京都吉田山下)
(8)諸口十九(つづや)(1927-27。神奈川県新子安)
(9)森野五郎(1927-27)
(10)市川市丸(1927-27)
(11)片岡千恵蔵(1928-37。京都嵯峨野)
(12)市川小文治(1928-28)
(13)中根龍太郎(1928-28)
(14)嵐寛寿郎(第1次寛プロ1928-28。第2次寛プロ1931-37)
(15)山口俊雄(1928-28)
(16)月形龍之介(1928-29/1931-32。奈良生駒山ろく)
(17)谷崎十郎(1928-28)
(18)山本礼三郎(1928-28)
(19)市川百々之助(もものすけ)(1930-30)
(20)沢村宗之助(1932-33)
(21)入江たか子(1932-37。京都双ヶ丘)
(22)高田稔(1934-36)
以上が戦前のスター・プロで,寿命の長短ははなはだしいが,日本映画の大きな側面を担い,なかでも片岡千恵蔵プロダクションは稲垣浩,伊丹万作,山中貞雄ら俊才の作品を数多く世に出して,一時代を画した。戦後にもスター・プロは生まれたが,戦前ほどの勢いはなく,そのことは三船プロを除けば自前の撮影所をもたないことに現れている。戦後のスター・プロには次のようなものがある。
(1)長谷川一夫(1948-52)
(2)鶴田浩二(1952-53)
(3)山村聡(1952-65)
(4)岸恵子,久我美子,有馬稲子の〈にんじんくらぶ〉(1954-66)
(5)三船敏郎(1962- 。東京世田谷成城)
(6)石原裕次郎(1963- )
(7)三国連太郎(1963-65)
(8)勝新太郎(1967-81)
(9)中村錦之助(のち萬屋錦之介)(1968-82)
時代劇と現代劇
サイレント映画の頂点--時代劇の全盛時代
日本映画は1920年代後半,量産時代に入り,年間650本ほどの作品がつくられるようになった。まだサイレントの時代であり,全盛期には7000人の弁士がいたという。すでに〈旧劇〉〈新派〉という呼称はなく,〈時代劇〉〈現代劇〉という言い方が一般化していた。量的には時代劇が圧倒的に多く,ロケ撮影に適した風景や古い建物のある京都でつくられたが,〈剣戟王〉阪東妻三郎がみずからのプロダクションの撮影所を太秦に建設(1926)して以来,京都のなかでも太秦が時代劇映画のメッカとなった。田中純一郎著《日本映画発達史》は,30年,帝キネのスタッフが全焼した大阪長瀬の撮影所から太秦の元阪妻プロ撮影所へ移ったことを記したあと,〈嵯峨野の一寒村であった太秦は,これにより日本随一のスタジオ街となった。日活の九百人,東亜の五百人,マキノの四百人,千恵蔵プロの百人,それに帝キネの六百人,併せて二千五百人のスタジオマンが,この太秦へ集まったわけである〉と述べている。こうしたなかで,30年前後,伊藤大輔の《忠次旅日記》三部作(1927-28),《斬人斬馬剣》(1929),マキノ正博(のち雅弘,雅裕)の《浪人街》三部作(1928-29),《首の座》(1929),稲垣浩の《瞼の母》(1931),伊丹万作の《国士無双》(1932),山中貞雄の《盤嶽の一生》(1933)など,サイレント映画の頂点をなす時代劇が生まれた。
トーキーの開発と現代劇の発展
この間,トーキー技術がさまざまに開発され,国産のミナ・トーキーによる溝口健二の《ふるさと》(1930。日活)につづいて,1931年,国産の土橋式トーキーによる五所平之助の《マダムと女房》が本格的なトーキー第1作として松竹でつくられた。ここで日本映画は新しい段階に入り,現代劇においてめざましい達成がとげられるに至った。小市民映画と女性映画・メロドラマを中心とする松竹では,五所平之助《花嫁の寝言》(1933),島津保次郎《隣りの八重ちゃん》(1934),小津安二郎《一人息子》(1936),清水宏《風の中の子供》(1937),吉村公三郎《暖流》(1939),渋谷実《母と子》(1939)や,大ヒット作《愛染かつら》(1938。野村浩将監督)がつくられた。日活は,田坂具隆《真実一路》(1937),熊谷久虎《蒼氓》(1937),内田吐夢《限りなき前進》(1937),島耕二《風の又三郎》(1940)などをつくって,現代劇の黄金時代を迎えた。新生のPCL・東宝からは,成瀬巳喜男《妻よ薔薇のやうに》(1935),木村荘十二《兄いもうと》(1936),豊田四郎《若い人》(1937),山本嘉次郎《綴方教室》(1938)などが生まれた。また,溝口健二は第一映画で《浪華悲歌》《祇園の姉妹》(ともに1936),新興キネマで《愛怨峡》(1937),松竹で《残菊物語》(1939)を撮った。
トーキー時代劇では,衣笠貞之助の《忠臣蔵》(1932),《雪之丞変化》(1935)など,純然たる時代劇が多くつくられたが,小市民映画の時代劇版ともいえる作品がいくつも出現した。稲垣浩《旅は青空》(1932),山中貞雄《街の入墨者》《丹下左膳余話・百万両の壺》(ともに1935),《河内山宗俊》(1936),《人情紙風船》(1937),伊丹万作《赤西蠣太》(1936)などである。それらはときに〈ちょん髷(まげ)をつけた現代劇〉と呼ばれ,時代劇が内容的に現代劇と変わらなくなったことを示している。
1930年代における製作本数は年間500本ほどで,日本映画は質量ともに最大の黄金期に入ったといえる。ちなみに,全国の映画館数は1930年の1392から40年の2363へ,映画観客人口は1930年の約1億6000万から40年の約4億へと,飛躍的に増大した。こうした黄金期の絶頂のなかで,日本映画は戦争の荒波にもまれてゆく。
戦争と映画
トーキー第1作《マダムと女房》が公開されて大当りしたのは1931年8月であるが,翌9月,いわゆる満州事変が起こった。これより日本は45年の敗戦まで15年戦争の時代に入る。つまり,トーキー以後の日本映画の黄金期はぴったり戦争の時代に重なるといってよい。戦争の進展とともに検閲などの映画統制は強化され,1934年には総理大臣監督下の映画統制委員会がつくられて,翌35年,それのもとで官民合同の国家協力機関,大日本映画協会が設立された。同協会の機関誌《日本映画》(1938年5月号)には,〈とにかく映画は,その持つ威力の絶大なる故に,国民の思想的団結の強化のために,思想政策の一翼として,最前線に積極的に動員されなければならない。而してその動員は,我国映画事業並に映画内容の現状に鑑み,国家の立場よりする統制の形態をとらざるべからざることも亦自明の理だ〉と述べた一文が見られ,国家にとって映画がいかに重視すべきものであったかをよく伝えている。こうして38年の国家総動員法公布を経て,第2次大戦の始まった39年,映画法が施行され,映画製作・配給の許可制,映画製作に従事する者(監督,俳優,カメラマン)の登録制,劇映画脚本の事前検閲,文化映画・ニュース映画の強制上映,外国映画の上映制限などが法定化された。この間,いわゆる日華事変の起こった1937年には中国東北部に満州映画協会が,映画法施行の39年には中国南京に中華電影,中国北京に華北電影が,いずれも国策会社として設立されて,国家による日本外地での映画工作が広がっていった。映画法に基づく映画新体制の強化はきびしく,41年の日米開戦ののち,42年,映画会社は東宝と松竹,それに新興キネマ・日活・大都を吸収した大映の3社となり,200以上あった文化映画製作会社は3社に,外国映画輸入会社は1社に統合され,また,映画配給も〈紅〉〈白〉2系統に統合された。
映画はこうしたなかでトーキー全盛時代を迎える一方,15年戦争の初期には日露戦争を扱ったもの,1932年のいわゆる上海事変における爆弾3勇士を描いたものが多くつくられ,37年の日華事変の際にはニュース映画が量産された。そして,戦争に取材した劇映画が輩出し,それらは国策的内容のものから単純な娯楽映画や高度なリアリズムによる作品まで,実に多種多様ながら,戦時日本映画を形づくった。田坂具隆《五人の斥候兵》(1938),《土と兵隊》(1939),《海軍》(1943),熊谷久虎《上海陸戦隊》(1939),今井正《沼津兵学校》(1939),《望楼の決死隊》(1943),吉村公三郎《西住戦車長伝》(1940),阿部豊《燃ゆる大空》(1940),《あの旗を撃て》(1944),山本嘉次郎《ハワイ・マレー沖海戦》(1942),《加藤隼戦闘隊》(1943),マキノ正博《阿片戦争》(1943),木下恵介《陸軍》(1944)などである。また,満映と東宝の提携作品《白蘭の歌》(1939。渡辺邦男監督),《支那の夜》(1940。伏水修監督)が大陸ロマンスものとしてヒットし,満映の〈名花〉李香蘭(1920- 。山口淑子)をスターにした。こうした劇映画とは別に,すぐれた長編記録映画として亀井文夫の《上海》(1938)がある。
1930年代には年間ほぼ500本つくられた劇映画は,40年の497本を最後に,41年232本,42年87本と激減し,45年にはわずか26本となった。
占領時代の日本映画
リンゴの唄とGHQ
15年戦争が日本の敗北で終わった1945年8月15日以後,最初に公開された日本映画は,8月30日封切の松竹作品《伊豆の娘たち》(五所平之助監督)と大映作品《花婿太閤記》(丸根賛太郎監督)であるが,2作品とも戦時中に企画されたもので,真の戦後映画第1号は10月11日封切の松竹作品《そよかぜ》(佐々木康監督)であった。主題歌《リンゴの唄》が一世をふうびした《そよかぜ》は,GHQ検閲第1号の映画でもある。
45年9月22日,連合軍総司令部(GHQ)は,軍国主義の撤廃,自由主義の促進,平和主義の設定を基本目標にした映画製作方針を指示,GHQによって検閲が行われることになり,さらに11月,GHQの民間情報教育部によって13項目の映画製作禁止条項が通達された。こうして,戦時中の映画法は撤廃されたが,GHQの占領政策が日本映画のうえにおおいかぶさることとなった。
GHQの映画政策に沿う形で,観念的で生硬なものから真に自由な映画としての力をもったものまで,さまざまな民主主義映画が生まれた。45年の田中重雄《犯罪者は誰か》,松田定次《明治の兄弟》,牛原虚彦《街の人気者》,46年の木下恵介《大曾根家の朝》,今井正《民衆の敵》,黒沢明《わが青春に悔なし》,楠田清《命ある限り》,溝口健二《女性の勝利》,47年の五所平之助《今ひとたびの》,亀井文夫・山本薩夫《戦争と平和》などである。そして,すぐれた映画作家はさらに独自の展開を示し,黒沢明は《素晴らしき日曜日》(1947),《酔いどれ天使》(1948),《野良犬》(1949)を,吉村公三郎(1911-2000)は《安城家の舞踏会》(1947),《わが生涯のかがやける日》(1948)を,溝口健二は《夜の女たち》(1948)を,今井正(1912-91)は《青い山脈》(1949)を,木下恵介は《破れ太鼓》(1949)をつくった。
ちょん髷をつけない時代劇
時代劇の戦後第1作は,丸根賛太郎の《狐の呉れた赤ん坊》(1945)であるが,こうした人情喜劇は別として,GHQの制限のためにチャンバラを描くことができず,伊藤大輔の《素浪人罷(まかり)通る》(1947)のように剣戟ぬきでつくられた。これにより,多くの時代劇スターは,時代劇のパターンをそのまま現代劇に移し変えた探偵映画,ギャング映画,いわゆる〈ちょん髷をつけない時代劇〉で活躍することになり,活劇の主流は現代劇となった。このほか,娯楽映画としては,エノケン,シミキン,ロッパらの喜劇が多くつくられ,《はたちの青春》(1946。佐々木康監督)が最初の〈接吻映画〉として話題になった。
この間,1946年3月から東宝争議が起こり,47年には新東宝の分裂を生み,また,49年には映画業界の自主規制機関として映画倫理規程管理委員会(映倫)が設立され,審査検閲はGHQから映倫へ移った。しかし50年,GHQはレッドパージ(いわゆる〈赤狩り〉)に乗り出し,多くの映画人が企業から追われる一方,かつて戦争犯罪追及により公職から追放されていた映画人が,追放を解かれ,企業に復帰した。
独立プロの盛衰
東宝争議とレッドパージによって,1950年代前半,日本映画に新しい動きが起こった。企業を追われた人々による独立プロの隆盛である。その先駆となったのは,東宝争議の妥結資金によって日映演(日本映画演劇労働組合)が自主製作した《暴力の街》(山本薩夫監督)で,50年2月に大映系で公開された。そして,これの興行的成功をきっかけに,東宝退社組を中心に新星映画社が設立され,前進座との提携で第1回作品《どっこい生きてる》(1951。今井正監督)を製作した。以後,独立プロが続出して,独自の映画づくりを始める。戦前にも独立プロはあったが,この戦後の独立プロ・ブームの特徴は左翼独立プロを中心とするところにあった。
これらの独立プロから山本薩夫《箱根風雲録》《真空地帯》(ともに1952),《太陽のない街》《日の果て》(ともに1954),《浮草日記》(1955),《台風騒動記》(1956),亀井文夫《母なれば女なれば》(1952),《女ひとり大地を行く》(1953),家城(いえき)巳代治《雲ながるる果てに》(1953),《ともしび》(1954),《姉妹》(1955),《こぶしの花の咲く頃》(1956),《異母兄弟》(1957),今井正《山びこ学校》(1952),《にごりえ》(1953),《ここに泉あり》(1955),《真昼の暗黒》(1956),新藤兼人《原爆の子》(1952),《女の一生》(1953),《どぶ》(1954),吉村公三郎《夜明け前》(1953),《足摺岬》(1954),五所平之助《朝の波紋》(1952),《煙突の見える場所》(1953),今泉善珠《村八分》(1953),山村聡《蟹工船》(1953),それに日教組製作の《ひろしま》(1953。関川秀雄監督)といった作品も生まれた。
これらの独立プロ作品は,大企業の配給網に依存するほかに,独自に配給もされた。しかし,54年,東映が2本立て封切を開始し,日活が製作再開して,大手6社の市場獲得戦が激化するなか,独立プロ作品の市場がなくなっていって,55年ころをもって独立プロ・ブームは終わった。
プロデューサーと路線
映画の隆盛にとってはまず映画製作の指揮をとる大プロデューサーの存在が不可欠であり,ことに1950年代の量産時代に各社が打ち出した〈路線〉は,そうしたプロデューサーにより決定された。
東宝では,森岩雄が前身のPCL時代からアメリカ映画のシステムに学んで映画事業経営の合理化・近代化をめざし,プロデューサーの主導権を重視した〈プロデューサー・システム〉を採用,戦後も同じ方針を貫いた。そしてその下から,東宝青春映画路線の基礎をつくった藤本真澄(さねずみ),《ゴジラ》(1954)をはじめとする特撮映画路線をつくった田中友幸らのプロデューサーが育った。
松竹の映画づくりは,戦前につづいて城戸四郎の下で進められ,女性メロドラマ路線をさらに推進して,《君の名は》(1953-54),《二十四の瞳》(1954)などのヒット作を出した。
大映では,永田雅一(1906-85)が戦前の第一映画,新興キネマでの経験に基づき,興行的価値を第一とする映画製作を行って,母もの映画路線と《羅生門》(1950),《雨月物語》(1952),《地獄門》(1953)などの文芸色豊かな王朝ものの大作で業績を安定させた。
戦後に生まれた東映では,大川博(1896-1971)がかつての鉄道マン時代(鉄道省,東急)の経験をもとに,徹底した営利主義を貫いた。《きけわだつみの声》(1950),《ひめゆりの塔》(1953)の大ヒットによる業績安定のあと,大川博は1954年,〈東映娯楽版〉と名づけた中編時代劇を添えて2本立て興行を開始,時代劇路線を発展させて〈時代劇王国〉東映を築くとともに,映画市場の全収益の半分を東映がいただくと豪語して,60年に第二東映(のちにニュー東映と改称)を発足させるに至った。初期の東映では,この大川博のもとで,戦前から戦中にかけて日活,満映で活躍してきたマキノ満男(光雄)がプロデューサーとしての腕をふるった。
戦後のプロデューサーとしては,ほかに,日活のアクション映画路線を主導した江守清樹郎,新東宝の危機を《明治天皇と日露大戦争》(1957)のヒットで救い,のちにいわゆるエロ・グロ路線を推進した大蔵貢らがいる。
5社体制の量産時代
1954年には日本映画界を揺るがす大事態が二つ起こった。東映による2本立て興行の開始と日活の製作再開である。これにより日本映画は量産時代に入り,1950-51年には約200本であった年間製作本数が年々増加,1956-61年には500本前後になって,〈プログラム・ピクチャー〉全盛期を迎えた。日活が製作再開を発表する直前,既存の5社(松竹,東宝,大映,新東宝,東映)は,俳優,監督などの引抜きを防止するべく〈5社協定〉を取り決めた(1953)が,日活は5社協定への参加を拒否し,トラブルの間を縫って映画づくりを進め,業績をあげていった。やがて新東宝の衰退(1961倒産)とともに,松竹,東宝,大映,東映,日活による〈5社体制〉ができあがった。
〈5社協定〉〈5社体制〉のもとで,各社は専属スターをかかえ,スターの魅力を第一にする映画製作を行って,人気スターの顔ぶれを組み合わせる形で番組(プログラム)を組んだ。東宝では,三船敏郎,原節子,鶴田浩二などのほか,森繁久弥,小林桂樹ら喜劇スター,加山雄三ら青春スターが活躍。松竹では,高峰秀子,岸恵子,佐田啓二,高橋貞二,有馬稲子らがメロドラマないし女性映画路線を担った。大映では,長谷川一夫,京マチ子,山本富士子,市川雷蔵,勝新太郎らが時代劇路線を支え,若尾文子,田宮二郎,川口浩らが現代劇スターとして活躍した。東映では,片岡千恵蔵,市川右太衛門,大友柳太朗,中村錦之助(のちの萬屋錦之介),東千代之介,美空ひばり,大川橋蔵らが〈時代劇王国〉を担った。日活では,石原裕次郎,小林旭,赤木圭一郎,北原三枝,浅丘ルリ子らがアクション映画路線を彩り,吉永小百合,浜田光夫らが青春映画路線で活躍した。
量産時代は質的な向上をももたらし,各世代の監督により多彩な作品が生み出されて,1930年代につぐ日本映画の黄金時代を出現させた。戦前派の監督では,溝口健二,小津安二郎,成瀬巳喜男,内田吐夢,田坂具隆,五所平之助,豊田四郎,また,戦中あるいは戦後まもなくデビューした監督では,黒沢明,木下恵介,今井正,渋谷実,川島雄三,市川崑,小林正樹らの活躍が見られた。
この間,最初の国産カラー映画《カルメン故郷に帰る》(1951)が松竹で,最初のシネマスコープ作品《鳳城の花嫁》(1957。松田定次監督)が東映で,最初の70ミリ作品《釈迦》(1961。三隅研次監督)が大映でつくられ,日本映画はカラー・ワイド時代に入った。
東宝の岡本喜八,堀川弘通,須川栄三,大映の増村保造,三隅研次,東映の沢島忠,加藤泰,新東宝の石井輝男,日活の中平康,今村昌平といった新しい世代の監督も生まれ,そして,1960年には,もっとも伝統的な映画づくりを行ってきた松竹から,大島渚,吉田喜重,篠田正浩らによる〈松竹ヌーベル・バーグ〉が生まれ,時を同じくして岩波映画からは新鮮なドキュメンタリー・タッチの《不良少年》(1960)で羽仁進がデビューする。
日本の映画観客人口は,1958年に11億2000万になり,史上最高を記録した。映画館数のピークは60年の7457館である。しかし,年間製作本数は61年の535本から62年の375本へ下落し,大手映画会社の製作本数が年々減少するなか,62年から小独立プロによる低予算のセックス映画(いわゆる〈ピンク映画〉)がつくられはじめ,まもなく年間200本ほどに急増して,量的には日本映画の大きな一角を占めるに至った。
1960年代のプログラム・ピクチャーでもっとも大きなものは,日活アクション映画と東映やくざ映画である。このうち日活アクション映画からは,井上梅次,舛田利雄,鈴木清順,蔵原惟繕らの監督が輩出した。また,東映やくざ映画はマキノ雅弘,佐伯清,加藤泰,山下耕作ら時代劇からの転進組によって支えられ,鶴田浩二,高倉健,藤純子らの人気スターを生み出すとともに,日活,大映にも類似のやくざ映画をつくらせるほどに隆盛したが,やがて最後のプログラム・ピクチャーとなった。
プログラム・ピクチャーとその後の日本映画
1961年の新東宝倒産を不吉な象徴として,以後,日本映画は衰退の一途をたどり,大手5社は64年には映画のテレビへの放出を決定せざるをえなくなった。70年には大映と日活がそれぞれの配給系統を維持できなくなって,ダイニチ映配として1本化し,翌71年,大映が倒産し,日活は一時製作中止ののち,ピンク映画にならった〈ロマン・ポルノ〉路線へ転向。70年代に各社が撮影所の一部を切り売りしたのも,衰退の現れである。そして,各社は専属のスターや監督をかかえることができなくなり,製作本数の減少に伴って俳優や監督はテレビに活動の場を求めることとなった。
この間,映画が内容的にも衰弱したわけではない。東映では深作欣二,佐藤純弥,中島貞夫らによる《仁義なき戦い》シリーズ(1973-74)等の実録やくざ映画,松竹では山田洋次,森崎東,前田陽一らによる《男はつらいよ》シリーズ(1969-96)等の喜劇,日活では一時製作中止直前にあらわれた藤田敏八,沢田幸弘,長谷部安春らによる〈日活ニュー・アクション〉,そして〈ロマン・ポルノ〉の神代辰巳,田中登,小沼勝らによる諸作品,さらにはATG(日本アート・シアター・ギルド。〈アート・シアター〉の項目を参照)による意欲的な映画づくりと,さまざまに日本映画の力を示した。
しかし,70年代から80年代にかけて,大手映画会社は製作本数をどんどん減らし,大作1本立ての長期興行に転ずるとともに,製作部門を切り離して独立プロ作品やテレビ映画の製作を手がけて,配給会社と化していった。その配給ルートに乗せるべく,1976年の角川映画以来,出版社,化粧品会社,広告会社,テレビ局などによる映画製作が盛んとなり,多種多様の独立プロが生まれた。
しかし,それはかつて各社の映画がもっていた独自のカラー(作風)がなくなって,〈路線〉ならぬ〈点〉として1本1本の映画が存在するしかないことであり,日本映画の拡散状況を示している。
→映画 →活劇映画 →時代劇映画
執筆者:山根 貞男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報