デジタル大辞泉
「広沢虎造」の意味・読み・例文・類語
ひろさわ‐とらぞう〔ひろさはとらザウ〕【広沢虎造】
[1899~1964]浪曲師。2世。東京の生まれ。本名、山田信一。虎造節を創始、「清水次郎長伝」などで一世を風靡した。
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ひろさわ‐とらぞう【広沢虎造】
- 浪曲家。本名山田信一。東京出身。関西で先代広沢虎吉に入門。軽妙な会話をはさむ虎造節によって、昭和の浪曲界を風靡し、舞台・映画・放送に活躍。明治三二~昭和三九年(一八九九‐一九六四)
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広沢 虎造(2代目)
ヒロサワ トラゾウ
- 職業
- 浪曲師
- 本名
- 山田 信一
- 旧名・旧姓
- 金田
- 別名
- 前名=広沢 春円,広沢 天勝,広沢 天華
- 生年月日
- 明治32年 5月18日
- 出生地
- 東京・芝白金
- 経歴
- 少年時代から浪花節を好み、19歳のとき大阪に下り、2代広沢虎吉の門に入り修業。大正11年、23歳で真打ちとなり、2代虎造を襲名して上京。それまで関西節であった節調を関東節に改め、研究を重ねていわゆる“虎造節”を創出。「清水次郎長伝」はその節調を短的に表現しており誰にも馴染めるメロディと、ケレン(笑い)を交えた巧みな会話で、老幼男女を問わず、初めて浪曲を聴く者をも傾倒させ、日本中にその名声を高めた。浪曲の舞台のみでなく、レコード、放送でも人気を博し、遂には映画、芝居にも出演したが、昭和33年脳溢血で倒れ再起不能となり、39年死去。「清水次郎長伝」によって、浪曲を広く一般大衆に知らした功労者であり、昭和浪曲界最高の人気者だった。平成11年生誕100年を記念して伝記小説「江戸っ子だってねぇ 浪曲師二代目広沢虎造一代」(吉川潮著)、未完に終わった「祐天吉松」(全9巻)がテープ、CD化し発売される。
- 没年月日
- 昭和39年 12月29日 (1964年)
- 家族
- 二男=山田 二郎(アナウンサー)
- 伝記
- 江戸っ子だってねえ―浪曲師広沢虎造一代興行界の顔役さよなら芸能界大歌謡論さらば、愛しき芸人たち 吉川 潮 著猪野 健治 著永 六輔 著平岡 正明 著矢野 誠一 著(発行元 ランダムハウス講談社筑摩書房朝日新聞社筑摩書房文芸春秋 ’07’04’01’89’89発行)
広沢 虎造(3代目)
ヒロサワ トラゾウ
- 職業
- 浪曲師
- 肩書
- 日本浪曲協会会長
- 本名
- 中田 武雄
- 生年月日
- 大正11年 9月29日
- 出生地
- 東京市 浅草区(東京都 台東区)
- 学歴
- 三の輪商卒
- 経歴
- 昭和12年木村重松に入門、重春を名乗る。翌年2代目広沢虎造に師事し、広沢虎之助となる。41年に3代目を襲名。平成2〜3年日本浪曲協会会長を務めた。代表演目に「清水次郎長伝」「乃木将軍伝」など。
- 没年月日
- 平成5年 3月25日 (1993年)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
広沢 虎造(2代目)
ヒロサワ トラゾウ
大正・昭和期の浪曲師
- 生年
- 明治32(1899)年5月18日
- 没年
- 昭和39(1964)年12月29日
- 出生地
- 東京・芝白金
- 本名
- 山田 信一
- 旧姓(旧名)
- 金田
- 別名
- 前名=広沢 春円,広沢 天勝,広沢 天華
- 経歴
- 少年時代から浪花節を好み、19歳のとき大阪に下り、2代広沢虎吉の門に入り修業。大正11年、23歳で真打ちとなり、2代虎造を襲名して上京。それまで関西節であった節調を関東節に改め、研究を重ねていわゆる“虎造節”を創出。「清水次郎長伝」はその節調を短的に表現しており誰にも馴染めるメロディと、ケレン(笑い)を交えた巧みな会話で、老幼男女を問わず、初めて浪曲を聴く者をも傾倒させ、日本中にその名声を高めた。浪曲の舞台のみでなく、レコード、放送でも人気を博し、遂には映画、芝居にも出演したが、昭和33年脳溢血で倒れ再起不能となり、39年死去。「清水次郎長伝」によって、浪曲を広く一般大衆に知らした功労者であり、昭和浪曲界最高の人気者だった。平成11年生誕100年を記念して伝記小説「江戸っ子だってねぇ 浪曲師二代目広沢虎造一代」(吉川潮著)、未完に終わった「祐天吉松」(全9巻)がテープ、CD化し発売される。
広沢 虎造(3代目)
ヒロサワ トラゾウ
大正・昭和期の浪曲師 元・日本浪曲協会会長。
- 生年
- 大正11(1922)年9月29日
- 没年
- 平成5(1993)年3月25日
- 出生地
- 東京・浅草
- 本名
- 中田 武雄
- 学歴〔年〕
- 三の輪商卒
- 経歴
- 昭和12年木村重松に入門、重春を名乗る。翌年2代目広沢虎造に師事し、広沢虎之助となる。41年に3代目を襲名。平成2〜3年日本浪曲協会会長を務めた。代表演目に「清水次郎長伝」「乃木将軍伝」など。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
広沢虎造 (ひろさわとらぞう)
浪曲家。初代は,3代広沢虎吉。(1)2代(1899-1964・明治32-昭和39) 本名山田信一。東京芝の生れ。関西の2代広沢虎吉門下。23歳で真打になって帰京し,題材に3代神田伯山(はくざん)の講談《清水次郎長》《夕立勘五郎》などを選び,節(ふし)は2代鼈甲斎虎丸(べつこうさいとらまる)の明るさに初代木村重松の感傷調を加味し,軽妙な会話も手伝って圧倒的人気を呼んだ。とくに《森の石松・三十石船》における〈江戸っ子だってねえ。すしを食いねえ〉のせりふは流行語になったほどだった。レコード,映画,舞台と幅広く活躍し,昭和浪曲界最高の人気者だった。(2)3代(1922-93・大正11-平成5)本名田中武雄。東京生れ。2代門下。虎之助から襲名。《森の石松・三十石船》《石松の最期(さいご)》などが得意。
執筆者:興津 要
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広沢虎造
ひろさわとらぞう
(1899―1964)
浪曲師。2代目。本名山田信一。東京生まれ。大阪で、3代目広沢虎吉を襲名した初代虎造に2代目の名跡を譲られたのち帰京、浪曲師山田東盛に見込まれその女婿となった。妻トミが相三味線となり、合いの子節を基調に関東節の名人たちの長所を取り入れ、独得の虎造節をつくりだした。その『次郎長外伝・石松代参』は「ばかは死ななきゃなおらない」の当て節とともに、昭和初期から第二次世界大戦後までレコード、ラジオ、舞台で人気をよび、映画出演も延べ100本に及ぶほどの石松人気を独占した。2代目の死後、門下の虎之助が3代目虎造(1922―93、本名田中武雄)を襲名。3代目虎造は1990年(平成2)から91年まで日本浪曲協会会長を務めた。
[秩父久方]
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広沢虎造(2代) ひろさわ-とらぞう
1899-1964 大正-昭和時代の浪曲師。
明治32年5月18日生まれ。大阪の2代広沢虎吉に入門。天勝,天華をへて,大正11年2代虎造を襲名し,独特の虎造節を完成。「清水次郎長伝」シリーズが当たり作で,舞台,映画,ラジオ,レコードで活躍した。昭和39年12月29日死去。65歳。東京出身。旧姓は金田。本名は山田信一。
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広沢虎造【ひろさわとらぞう】
浪曲師。2世〔1899-1964〕は本名山田信一。東京生れ。関西で修業し,明るさと感傷を交じえた節と,軽妙な会話を磨いた。《清水次郎長》もので一世を風靡し,舞台,レコード,ラジオ,映画で活躍,昭和の浪曲界で最高の人気を保った。
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広沢虎造
ひろさわとらぞう
[生]1899.5.18. 東京,芝白金
[没]1964.12.29.
浪曲家。本名金田 (のち山田) 信一。 19歳で大阪の広沢虎吉に入門,1922年2世広沢虎造を襲名。明るく軽い節調とたんかを売物に,『清水次郎長』で一世を風靡する。映画にも進出したが,病を得て晩年は不遇であった。
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広沢 虎造(2代目) (ひろさわ とらぞう)
生年月日:1899年5月18日
大正時代;昭和時代の浪曲師
1964年没
広沢 虎造(3代目) (ひろさわ とらぞう)
生年月日:1922年9月29日
大正時代;昭和時代の浪曲家
1993年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の広沢虎造の言及
【清水次郎長】より
…墓は清水市の梅蔭寺。【吉原 健一郎】
[人物像]
講談,浪曲の題材としての清水次郎長を定着させたのは,講釈師の3代目神田伯山であるが,この伯山のところに日参して稽古した浪曲師2代目広沢虎造のラジオ放送やレコードによって昭和初期の大衆にとって英雄の存在にまで高められた。《清水次郎長伝》の原典とされている伯山の講談は,主として天田愚庵の《東海遊俠伝》によっている。…
※「広沢虎造」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」