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広沢虎造 ひろさわとらぞう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

広沢虎造
ひろさわとらぞう

[生]1899.5.18. 東京,芝白金
[没]1964.12.29.
浪曲家。本名金田 (のち山田) 信一。 19歳で大阪の広沢虎吉に入門,1922年2世広沢虎造を襲名。明るく軽い節調とたんかを売物に,『清水次郎長』で一世を風靡する。映画にも進出したが,病を得て晩年は不遇であった。

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デジタル大辞泉の解説

ひろさわ‐とらぞう〔ひろさはとらザウ〕【広沢虎造】

[1899~1964]浪曲師。2世。東京の生まれ。本名、山田信一。虎造節を創始、「清水次郎長伝」などで一世を風靡(ふうび)した。

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百科事典マイペディアの解説

広沢虎造【ひろさわとらぞう】

浪曲師。2世〔1899-1964〕は本名山田信一。東京生れ。関西で修業し,明るさと感傷を交じえた節と,軽妙な会話を磨いた。《清水次郎長》もので一世を風靡し,舞台,レコードラジオ,映画で活躍,昭和の浪曲界で最高の人気を保った。

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世界大百科事典 第2版の解説

ひろさわとらぞう【広沢虎造】

浪曲家。初代は,3代広沢虎吉。(1)2代(1899‐1964∥明治32‐昭和39) 本名山田信一。東京芝の生れ。関西の2代広沢虎吉門下。23歳で真打になって帰京し,題材に3代神田伯山(はくざん)の講談《清水次郎長》《夕立勘五郎》などを選び,節(ふし)は2代鼈甲斎虎丸(べつこうさいとらまる)の明るさに初代木村重松の感傷調を加味し,軽妙な会話も手伝って圧倒的人気を呼んだ。とくに《森の石松三十石船》における〈江戸っ子だってねえ。

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大辞林 第三版の解説

ひろさわとらぞう【広沢虎造】

1899~1964) (二代)浪曲師。東京生まれ。本名、山田信一。「清水次郎長」などを得意とし、その節は虎造節と呼ばれて一世を風靡ふうびした。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

広沢虎造
ひろさわとらぞう
(1899―1964)

浪曲師。2代目。本名山田信一。東京生まれ。大阪で、3代目広沢虎吉を襲名した初代虎造に2代目の名跡を譲られたのち帰京、浪曲師山田東盛に見込まれその女婿となった。妻トミが相三味線となり、合いの子節を基調に関東節の名人たちの長所を取り入れ、独得の虎造節をつくりだした。その『次郎長外伝・石松代参』は「ばかは死ななきゃなおらない」の当て節とともに、昭和初期から第二次世界大戦後までレコード、ラジオ、舞台で人気をよび、映画出演も延べ100本に及ぶほどの石松人気を独占した。2代目の死後、門下の虎之助が3代目虎造(1922―93、本名田中武雄)を襲名。3代目虎造は1990年(平成2)から91年まで日本浪曲協会会長を務めた。[秩父久方]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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世界大百科事典内の広沢虎造の言及

【清水次郎長】より

…墓は清水市の梅蔭寺。【吉原 健一郎】
[人物像]
 講談,浪曲の題材としての清水次郎長を定着させたのは,講釈師の3代目神田伯山であるが,この伯山のところに日参して稽古した浪曲師2代目広沢虎造のラジオ放送やレコードによって昭和初期の大衆にとって英雄の存在にまで高められた。《清水次郎長伝》の原典とされている伯山の講談は,主として天田愚庵の《東海遊俠伝》によっている。…

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