森川馬谷(初代)(読み)もりかわ・ばこく

朝日日本歴史人物事典 「森川馬谷(初代)」の解説

森川馬谷(初代)

没年:寛政3.1.8(1791.2.10)
生年:正徳4(1714)
江戸中期の講釈師。江戸の町医森川玄昌の次男。本名伝吉。馬場文耕の門人となるが,のちに独立して一派をなした。別に尾張の浪人森川庄左衛門説があり,これは江戸の馬喰町に住む大道講釈で8人家族を養った(馬喰町で八人の口を養う)ので馬谷と称したというが,俗説であろう。読物軍記物,御家騒動物,世話物の3種に分けたり,前座をひとり使うなど講釈界の形態を整えた。また後世に引き継がれた講釈場の看板やビラの書き方も馬谷が創始した。正月の初席には「大岡仁政談」「伊達大評定」「理世安民記」と併書した看板を出したが,3字合わせて大伊理(大入り)で縁起を祝ったものという。没月日は2月8日ともいわれている。<参考文献>関根黙庵『講談落語今昔譚』(改題復刻『講談落語考』,1960)

(吉沢英明)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報