森部村(読み)もりべむら

日本歴史地名大系 「森部村」の解説

森部村
もりべむら

[現在地名]安八町森部

長良川右岸、森部輪中の北東部に位置し、南は大森おおもり村、北は中須なかず川を隔てて墨俣すのまた輪中。古くは守部とも記されたと伝え、「三代実録」貞観一〇年(八六八)七月一二日条に「美濃国池田郡人守部秀刀自」とみえる守部氏の一統がこの地に住んだことによるという(名森村史)。康永三年(一三四四)八月一五日の六条新八幡宮奉納神宝并社領文書目録(醍醐寺文書)に鎌倉大納言家(足利尊氏)寄進状として「康永二年十月五日美濃国森部郷事」とみえ、当地は山城醍醐寺が管轄する六条新八幡宮(左女牛若宮)領であった。足利義満より拝領した所領について記した年未詳の醍醐寺方管領諸門跡等所領目録(同文書)や正長二年(一四二九)七月二九日の同目録案(同文書)によれば、左女牛若宮別当職の所領として同郷が含まれているが、足利義政袖判をもつ応仁二年(一四六八)閏一〇月四日の同目録(同文書)を最後に醍醐寺領としての史料はない。


森部村
もりべむら

[現在地名]田主丸町森部

耳納みのう山地中央、鷹取たかとり(八〇二・一メートル)北麓に位置し、西は石垣いしかき村。屋敷地は通称山辺やまべ往還北側にあり、耳納山麓に松御立山・松植立山、中腹に上寺山かみてらやま平野山ひらのやまが記される(上三郡絵図)。南の耳納峠には安倍貞任・宗任が三千人の敵の耳を切って納めたという耳塚がある。耳納山には水船谷・はせヶ谷・おお谷の三谷があり、大谷の東には大蛇が住んでいたが、勧進僧が法華経千巻を納めると麻生あそう池に逃去ったという(「壊山物語」西見家文書)。永正元年(一五〇四)龍造寺胤知が筑後国に来て倉富を名乗り、代々当村の庄屋役を勤めた。元和七年(一六二一)庄屋六郎左衛門は有馬豊氏入部の際に恵利えり渡に出向き、家老有馬内記が六郎左衛門宅に滞在したと伝える(旧家由緒書)


森部村
もりぶむら

[現在地名]丹生川村森部

荒城あらき川の支流森部谷もりぶだに川流域を占める。東は折敷地おしきじ村の枝村呂瀬ろつせ、南は折敷地村・大沼おおぬま村。同川は北西端の大雨見おおあまみ(一三三六・四メートル)に源を発し、南流して荒城川に注ぐ。吉城よしき郡に属し、慶長一〇年(一六〇五)飛騨国郷帳では荒木あらき郷に村名がみえ、折敷地村などとともに高付される。同一八年郷帳では「もりふ村」として高四〇石余。元禄検地反歩帳では高五九石余、田三町一反余(うち二畝余金山分)・畑四町九反余(うち四町五反余金山分)。「飛騨国中案内」によれば免は二割八分一厘九毛、家数三一、うち百姓二四・地借四・門屋三。天明八年(一七八八)の高五九石余、反別田三町一反余・畑一四町九反余、家数三四・人数一八九、牛二・馬二、威鉄砲一(村明細帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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