楠橋庄(読み)くすばしのしよう

日本歴史地名大系 「楠橋庄」の解説

楠橋庄
くすばしのしよう

現八幡西区南部の楠橋地区および中間市下大隈しもおおくま地区を含む一帯に比定される庄園。三条家領、のち山城醍醐寺領。本家は三条家の宗家にあたる西園寺家と考えられる。正嘉二年(一二五八)二月一一日の後嵯峨上皇院宣案(醍醐寺文書/鎌倉遺文一一、以下断りのない限り同文書)に「楠橋庄」とみえ、三条公為と祇女御前(法名真性)との間で父公俊の遺領である当庄などをめぐる争いが生じている。公俊は建長二、三年(一二五〇、五一)に当庄などを子息公為に、庄内大隈村俊誉に譲ったと思われるが、同七年三月一五日になって「くすハし」は祇女に譲り直し、祇女の死後は娘の阿古(祇女御前の妹、土御門通教の妻)に譲ることに改め(同三年九月二三日「公俊譲状案」鎌一〇)、正嘉二年、このことが確認された(前述後嵯峨上皇院宣案)。なお正中二年(一三二五)四月五日の鎮西下知状(金剛三昧院文書/鎌倉遺文三七)に引用される建久図田帳によれば、当地は粥田かいた庄加納の地で田数二〇〇余町であったという。

文永元年(一二六四)当庄預所職をめぐって中納言典侍(阿古)が醍醐寺の俊誉(公俊の子息)を訴え、三分の二(楠橋庄二分方)を中納言典侍、残り三分の一(楠橋庄一分方)を俊誉が知行することで和解が成立した(六月一七日「後嵯峨上皇院宣」鎌一二など)。正応六年(一二九三)庄内の大隈(現中間市)が松橋法印(俊誉)に安堵されている(同年正月二二日「伏見天皇綸旨」鎌二三)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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