大隈村(読み)おおくまむら

日本歴史地名大系 「大隈村」の解説

大隈村
おおくまむら

[現在地名]久留米市梅満町うめみつまち原古賀町はらこがまちまつ枝町えまち

庄島しようじま村の南、久留米段丘の西端に位置する。西は大石おおいし村、南は掛赤かけじやく村。当村のうち裏町うらまち名・原古賀名は久留米城下の一部として武家地となっていた。中世は三潴庄とう郷のうち。永仁四年(一二九六)一二月日の玉垂宮并大善寺仏神事記文(御船文書/鎌倉遺文二五)によると、大隈は大善だいぜん玉垂たまたれ宮の春祠使幣官料四斗の神事用途を負担し、五月会で村田楽を出した。正和二年(一三一三)二月五日、鎮西探題北条政顕は大隈右衛門佐に三潴郡内「太隈在々所々本地」の知行を安堵した(「鎮西探題御教書案」大隈文書/鎌倉遺文三二)。文保元年(一三一七)四月一二日、前壱岐守某は当地を名字の地とする大隈兵部丞に対し三潴庄内是友これとも村を弟子丸の代所として知行するよう命じている(「前壱岐守書下」同文書/鎌倉遺文三四)。元亨二年(一三二二)三月七日、「筑後国大隈四王寺」をめぐり、香西駒松丸と荊津次郎入道が相論を行っている(「鎮西探題御教書案」同文書/鎌倉遺文三六)


大隈村
おおくまむら

[現在地名]玖珠町大隈

北流してきた玖珠川が西に転ずる付近の左岸にある。西方塚脇つかわき村。南方の尾籠おごもりには方形周溝墓(破壊)や中世寺院跡、祇園ぎおんには亀都起きつき古墳などの遺跡が多い。金栗院こぞこいは貢租院からの転で、近くに郡衙があったという。同所には永正二年(一五〇五)銘の六地蔵石幢がある。また金栗院の北隣の有田ありたは、「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条にみえる荒田あらた駅と想定する説がある。中世は帆足ほあし郷の内としてみえる。慶長六年(一六〇一)の予州替地知行所目録(佐伯藩政史料)に大くま村とあり、高六七七石余。同七年の日田郡・玖珠郡預米帳(同史料)に大隈村とあり、百姓大蔵の名がみえる。同年の玖珠郡・日田郡御蔵入目録(同史料)では物成一九三石余のうち米九〇石余・豆五五石余・稗三一石余・蕎麦六石余・粟五石余・大唐四石余。


大隈村
おおくまむら

[現在地名]粕屋町大隈・上大隈かみおおくま

「小隈村」とも記される(正保郷帳)若杉わかすぎ(六八一メートル)の北西、多々良たたら川中流域に位置し、東は和田わだ(現篠栗町)。観応三年(一三五二)書写の安楽寺領注進状に「大隅庄地頭職御霊社寄進之」とみえるのは当地か。室町時代後期頃と思われる糟屋東郷年貢算用状断簡(石清水文書/大日本古文書四―二)に「大隈村」がみえ、筥崎宮の本家である山城石清水いわしみず八幡宮祠官家田中坊の直務支配を受けていた。天文年間(一五三二―五五)になると石清水八幡宮供僧蓮城坊慶隼が「和田乙犬大隈三ケ所」の代官職に補任された(年未詳八月二三日「後藤則定請文案」同上)


大隈村
おぐまむら

[現在地名]嘉穂町大隈おおくま

下中益しもなかます村・中益村の南東に位置し、村の西を遠賀おんが川が流れる。本村と四郎丸しろうまるに集落がある(続風土記拾遺)。「続風土記」は大隈町を枝村とする。小早川時代の指出前之帳では大隈村の田二九町余(分米三四二石余)・畠二町六反余(分大豆一八石余)。文禄四年(一五九五)の検地後「大隈村」の三六〇石余が国司土佐守に宛行われている(同年一二月一日「小早川秀俊知行方目録」萩藩閥閲録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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