日本歴史地名大系 「樫村」の解説 樫村かしむら 兵庫県:小野市樫村[現在地名]小野市樫山町(かしやまちよう)・榊町(さかきちよう)・育(いく)ヶ丘町(おかちよう)池尻(いけじり)村の南、加古川左岸に位置する。南北とも台地に囲まれ、その間を桜谷(さくらたに)川が流れ加古川に合流、桜谷川下流両岸に集落が形成される。同じ谷の東に榊新田がある。慶長国絵図に「かし村」とみえる。領主の変遷は門前(もんぜん)村に同じ。正保郷帳では田方五七二石余・畑方六九石余。元禄郷帳でも同高で、ほかに樫村枝郷として榊新田高一〇石余が記載されている。同新田は慶安四年(一六五一)にはすでに樫村の新田として小開発が行われていたらしく、小集落が形成されている(「一柳土佐守知行所変地改之覚」一柳家文書)。享保六年(一七二一)頃の村々高寄位付覚(神生家文書)や両郷村々用水掛控(前田家文書)でも榊新田を樫村の一部として取扱っている。 樫村かしむら 岡山県:和気郡吉永町樫村[現在地名]吉永町和意谷(わいだに)和意谷川の源流域にあたり、丘陵台地上にある。南は脇谷(わきだに)村、西は牛中(うしなか)村。慶長一八年(一六一三)の和気郡御勘定帳に村名がみえ、物成三五石余、夫米二石余。寛永備前国絵図によれば高一〇一石余。「備陽記」では田畑七町余、家数二二・人数一八七。享保六年(一七二一)の蔵入并知行高村分帳によると、直高七七石余で御学校領。文化年間の「岡山藩領手鑑」でも直高は同様で、残高七六石余、反別田二町七反余・畑四町二反余、家数四三、うち、そら一六・鍬河内一六・中尾一一、すべて藤野(ふじの)村(現和気町)の実成(じつじよう)寺檀家、人数一九九、牛八、宮一(熊野神社)、池二、猟師鉄砲一〇、山一三七町余、藪八町一反余(御学校領)、辻堂一。 樫村かしつじむら 奈良県:五條市樫村[現在地名]五條市樫辻町嶺大深(みねおぶか)村東方の山村。賀名生(あのう)谷、富貴(ふき)谷に至る岐点に立地。明応五年(一四九六)の坂合部殿証文(表野の田中家文書)に「坂合部郷殿際目之事(中略)樫辻村モ田畑屋敷満てにて山等領内ナシ」とみえ、坂合部(さかいべ)郷に属し、「五條市史」所収の文禄二年(一五九三)の坂合部郷河南方検地帳に「合七拾九石五斗壱升七合 樫辻村」とある。慶長郷帳では松倉重政領「坂部郷」六一三・二五五石のうち。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by