日本大百科全書(ニッポニカ) 「檜山騒動」の意味・わかりやすい解説
檜山騒動
ひやまそうどう
(1)1713年(正徳3)に起こった南部(盛岡)藩と津軽(弘前(ひろさき))藩の境界論争。両藩の境界は南部藩馬門(まかど)村(青森県野辺地(のへじ)町)と津軽藩黒石家平内(ひらない)領狩場沢(かりばさわ)村(同県平内町)との間にある堀差(ほりさし)山(一名檜(ひのき)山)の峰とされていたが、境がはっきりせず、しばしば争いがあった。たまたま馬門村の者が境を越えて檜を伐(き)ったことから両者の争いが大きくなり、ついに幕府へ訴訟に及んだ。幕府は、翌14年現地へ役人を派遣して調査し、境界論争は津軽側の勝訴とされ、一件は落着した。
(2)1821年(文政4)4月、南部藩士の相馬大作(そうまだいさく)(本名下斗米秀之進(しもとまいひでのしん))一味が、参勤から帰城の津軽侯9代寧親(やすちか)を岩抜(いわぬき)山(矢立(やたて)峠ともいう)で襲撃した事件。南部騒動ともいう。世に檜山騒動として名高いのは、正徳(しょうとく)の檜論と大作事件を織り混ぜた講談・小説の影響による。
[工藤睦男]
『北島正元編『御家騒動』(1970・新人物往来社)』