改訂新版 世界大百科事典 「檜隈」の意味・わかりやすい解説
檜隈 (ひのくま)
奈良県高市郡明日香村南西部の古代地名。檜隈忌寸(いみき)とも称される渡来系集団,東漢(やまとのあや)氏が集中して居住した。《日本書紀》応神20年9月条の記事や,《続日本紀》宝亀3年(772)4月条の坂上苅田麻呂の奏言によれば,応神朝に百済から渡来した阿知使主(あちのおみ)やその子の都加使主(つかのおみ)らが檜隈邑に住みつき,その子孫が栄えて檜隈忌寸と称されるに至ったという。雄略朝からは,さらに新来の渡来系の人々すなわち今来漢人(新漢人)(いまきのあやひと)もこの地に住むようになった。欽明7年7月条にみえる今来郡は,東漢氏や今来漢人が多く居住した高市郡の別名である。これらの渡来系氏族集団は,蘇我氏と深く結びつき,その支配下にあって,優れた技能を生かし,大和王権の財政,軍事,記録等の分野に活躍した。宣化天皇が檜隈の地に宮を営んだと伝えられるのも(檜隈廬入野宮),いわゆる継体・欽明朝の内乱を検討する際に見逃すことのできない伝承であろう。このように,檜隈の地は,東漢氏や今来漢人により開拓が進められたのである。檜隈地域には,大和盆地の条里とは方位の異なった特殊な条里が施行されている(檜隈条)。この特殊条里は,大和盆地に施行されている条里に先行する可能性があり,その場合には,東漢氏や今来漢人のもつ優れた土木技術が生かされたと考えることができる。また,檜隈に住む渡来系集団は,仏教信仰をいち早く受容したらしい。明日香村立部の定林寺跡出土瓦は飛鳥時代のものである。また,東漢氏に属する有力氏族,坂上直の氏寺の可能性の大きい檜隈寺は,発掘調査により,西面する特異な伽藍配置をもつ白鳳期の寺院であることが判明した。檜隈地域の特色として,北端部に6世紀中葉に築造された梅山古墳(現在,欽明天皇陵に治定されている)を例外とすれば,天武・持統合葬陵(檜隈大内陵)を中心に,高松塚古墳,中尾山古墳,鬼の俎・厠,平田岩屋古墳,越岩屋山古墳,牽牛子塚(けごしづか)古墳,マルコ山古墳など,いずれも7世紀前半・中葉~8世紀初頭に築造された,終末期古墳が集中する事実があげられる。これらの古墳の被葬者は,東漢氏や今来漢人ではなく,天皇・皇后・皇子女と考えることができ,いわば王家の谷ともいうべき墳墓地を形成していた。
執筆者:和田 萃
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報