日本大百科全書(ニッポニカ) 「継体・欽明朝の内乱」の意味・わかりやすい解説
継体・欽明朝の内乱
けいたいきんめいちょうのないらん
6世紀前半の内乱。継体朝の磐井(いわい)の乱(527~528)に始まり、全国的規模をもった辛亥(しんがい)の変(531)を頂点に、安閑(あんかん)・宣化(せんか)朝と欽明朝との9年間の両朝対立に及ぶ一大内乱をいう。継体以下、安閑、宣化、欽明の4朝については紀年において種々の不統一がみられる。『日本書紀』は、『百済本紀(くだらほんぎ)』によって継体天皇の死を継体天皇25年の辛亥年(531)としているが、次の安閑天皇の即位元年は甲寅(こういん)年(534)としていて2年間の空位を置いている。さらに『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』では、欽明の治世を41年間とし、『書紀』が32年間の治世とするのに対して9年間の差がある。欽明の死は、『書紀』『帝説』とも辛卯(しんぼう)年(571)に一致することから、その即位は『帝説』による限り、継体の死の辛亥年にさかのぼることになり、安閑・宣化の治世を含み込んでしまう。この点は、仏教公伝の年が、『書紀』では欽明天皇13年の壬申(じんしん)年としているが、『元興寺縁起(がんごうじえんぎ)』では欽明天皇7年の戊午(ぼご)年(『帝説』でも欽明の戊午年=538年とする)としていて、欽明の即位が辛亥年にさかのぼることになる。
こうした紀年の錯簡(さっかん)を前提にして第二次世界大戦前、喜田貞吉(きたさだきち)は、継体は辛亥年になんらかの重大な事変によって没し、その直前欽明が即位した、しかし、この即位を認めぬ一派があって、2年を経たのち安閑、続いて宣化が即位し、両朝の並立に至ったとした。戦後、この喜田貞吉の見解を一歩進めて、磐井の乱―辛亥の変―両朝並立を、全国的規模で展開された内乱ととらえたのが林屋辰三郎(たつさぶろう)である。林屋説の要旨は次のとおり。4世紀後半に全国をほぼ統一した大和(やまと)王権は朝鮮へ出兵したが、やがて朝鮮経営の失敗、出兵の徭役(ようえき)に対する過重な負担を契機に地方で族長・民衆の反抗が起こり、とくに筑紫(つくし)(九州)では磐井の反乱となって爆発した。事態はさらに中央にも波及して、「皇室内になんらかの重大事変」すなわち辛亥の変を惹起(じゃっき)せしめたという。その結果、継体の死に先だって蘇我(そが)氏に擁立された欽明が即位し、一方、伝統的な氏族である大伴(おおとも)氏はその2年後安閑、そして宣化と擁立して欽明朝と対立した。この二朝並立は結局、宣化の死の539年(己未(きび)年)まで続いて、欽明による統一王朝が確立するという。この林屋説は、その後多くの支持を得る一方、紀年の錯簡以外に二朝対立を示すような痕跡(こんせき)はなく、当時の客観的情勢からいっても二朝対立を想定するのは無理であろうとする見解もある。
[小林敏男]
『「継体天皇以下三天皇皇位継承に関する疑問」(『喜田貞吉著作集3』所収・1981・平凡社)』▽『林屋辰三郎著「継体・欽明朝内乱の史的分析」(『古代国家の解体』所収・1955・東京大学出版会)』