坂上苅田麻呂(読み)さかのうえのかりたまろ

精選版 日本国語大辞典 「坂上苅田麻呂」の意味・読み・例文・類語

さかのうえ‐の‐かりたまろ【坂上苅田麻呂】

奈良後期の武将陸奥鎮守府将軍。右京大夫。田村麻呂の父。淳仁・称徳・光仁の三天皇に仕え、恵美押勝(えみのおしかつ)の乱や道鏡の乱に功を立てる。神亀五~延暦五年(七二八‐七八六

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改訂新版 世界大百科事典 「坂上苅田麻呂」の意味・わかりやすい解説

坂上苅田麻呂 (さかのうえのかりたまろ)
生没年:728-786(神亀5-延暦5)

奈良後期・平安初頭の武将。倭(東)漢(やまとのあや)氏の一族であるが,苅田麻呂の代,その宗家となり,同族が直(あたい)-連(むらじ)-忌寸(いみき)-宿禰(すくね)と改姓していくなかで,この宗族坂上氏だけは,大忌寸-大宿禰を称し,苅田麻呂-田村麻呂の代に全盛期を迎えた。苅田麻呂は大和守,造東大寺司長官犬養の子。田村麻呂の父。坂上氏は代々将種をうたわれた家柄で,757年(天平宝字1)の橘奈良麻呂の変において,すでに朝廷軍事力の中核として,牡鹿(道嶋)嶋足らとともに,彼の名があげられている。764年の恵美押勝の乱には,授刀少尉として奮戦,朝廷軍大勝の因をなした。功により,従四位下,大忌寸賜姓,中衛少将,770年(宝亀1)正四位下,陸奥鎮守将軍,771年中衛中将,781年(天応1)右衛士督,翌年氷上川継の変に連座し解任されたがまもなく復し,785年(延暦4)従三位,大宿禰賜姓。772年,785年2度の奏は,倭(東)漢氏=坂上氏の繁栄を示す重要史料。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「坂上苅田麻呂」の解説

坂上苅田麻呂 さかのうえの-かりたまろ

728-786 奈良時代武人
神亀(じんき)5年生まれ。坂上犬養(いぬかい)の子。坂上田村麻呂の父。藤原仲麻呂の乱で功をたて,中衛(ちゅうえの)少将,陸奥(むつ)鎮守将軍などを歴任する。延暦(えんりゃく)元年氷上川継(ひかみの-かわつぐ)の謀反に連座して右衛士督(うえじのかみ)を解任されるが,まもなく復帰。4年左京大夫(だいぶ)をかね,さらに越前(えちぜんの)守もかねた。従三位。延暦5年1月7日死去。59歳。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「坂上苅田麻呂」の意味・わかりやすい解説

坂上苅田麻呂
さかのうえのかりたまろ

[生]神亀5(728)
[没]延暦5(786).1.7.
奈良時代の武臣。田村麻呂の父。藤原仲麻呂の乱武功と弓削道鏡告発の功により重用され,延暦4 (785) 年従三位,左京大夫となる。 (→坂上氏 )  

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世界大百科事典(旧版)内の坂上苅田麻呂の言及

【坂上氏】より

…日本古代の氏族。渡来系氏族の東漢氏(やまとのあやうじ)(倭漢氏とも書く)から分かれた多数の枝氏族の一つ。東漢氏は,応神天皇の時代に阿知使主(あちのおみ)に率いられて日本に渡来してきたという伝承をもち,5世紀ころよりヤマト朝廷の文筆,財務,外交にたずさわるとともに,あとから渡来してきた手工業技術者などを支配下におさめて急速に成長した氏族であるが,その後分裂をくりかえし,60以上の枝氏族に分かれたという。…

※「坂上苅田麻呂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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