正院村(読み)しよういんむら

日本歴史地名大系 「正院村」の解説

正院村
しよういんむら

[現在地名]珠洲市正院町正院

鹿野かの村・本江寺ぼんこうじ村の東にあり、西をかな川、東をママ川が南流し、海に注ぐ。飯川河口部は中世以来の正院湊(正院浦)。地名は律令期に設置された正倉に由来すると考えられ、ほぼ真北線に基づく方格地割を復原し、方四町の古代官庁街を復原する試みがなされている(珠洲市史)珠洲駅の推定所在地であることも含め、当地は少なくとも古代珠洲郡の中核地帯で、正院の名を継ぐ国衙領珠珠すず正院、南北朝期からみえる正院郷の存在が知られる。天正九年(一五八一)一〇月九日の前田利家印判状(能登国古文書)に正院百姓中とあり、代官らが非分を行うことがあれば百姓直々に訴え出よといっている。当地木下家は初期扶持百姓で、扶持高一五俵を下付されていた(珠洲市史)正保郷帳に正院町とみえ、高六九四石余、田三五町七反余・畑一〇町六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高七五七石、免六ツ、小物成は山役三九三匁、外海船櫂役六三匁(ほか一四匁が退転)・猟船櫂役八〇匁(うち四〇匁が出来)・網役二五七匁(うち二四五匁が出来)、なお敷借本米・利足は二〇石であった(三箇国高物成帳)。文政期(一八一八―三〇)の草高七六七石余、百姓数一二九、懸作数四人(「品々帳」成之坊文書)

行政上は村扱いであるが、正保郷帳・天保郷帳に正院町と記すように町並が発達し、寛永期(一六二四―四四)の絵図(三百苅家蔵)にも「正印町」とある。おお町では秋にひっとり市(莚市)が開かれた。寛文三年当時加賀藩直轄領の年貢米を収納する郷蔵が置かれ、蔵番が付けられた(珠洲市史)。元禄三年(一六九〇)の家数二一三(加賀藩史料)


正院村
しよういんむら

[現在地名]植木町山本やまもと

うち村の南、平尾ひらお山南西部に位置し、北東部を豊前街道が通る。もとは内村に含まれた。慶長一三年(一六〇八)検地帳では田二四町六反一畝三歩・畠三七町三反三畝余・屋敷一町六反二畝余、分米五六二石一斗余、家数六七・人数八九、馬牛一八。下ケ名には正いん・つほ井川・うめのき町・宮ノ前・天神平・きと口・ほり・ミとりなどがある。近世は正院手永に属した。「国誌」には「西原村今古閑村高爪村山口村楠原村向原村草葉村等ノ小村アリ」とある。村名は山本郡の正院(郡衙・郡倉)所在に由来すると思われる。

明治八年(一八七五)知田ちだ村とともに山本村となり、同一一年頃の山本村の戸数一二六・人数五六一、牝馬九二、人力車三、北西などにある溜池を用水とし、米・麦・粟・甘藷・櫨実・楮皮などのほか瓦六万枚を産する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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