改訂新版 世界大百科事典 「武蔵国分寺」の意味・わかりやすい解説
武蔵国分寺 (むさしこくぶんじ)
東京都国分寺市にある真言宗豊山派の寺。医王山最勝院と号する。741年(天平13)聖武天皇の国分寺造営の詔によって建立されたのを起源とする。武蔵国に中央の仏教文化を普及し,天下太平と五穀豊穣を祈ることが使命であったが,835年(承和2)に七重塔が焼失し,845年(承和12)に再建されたものの,以後退転を繰り返した。ことに1333年(元弘3)新田義貞の鎌倉攻めの際の兵火による焼失は,堂宇を大幅に縮小させ,戦国時代には薬師堂としてわずかに体裁をとどめるに至った。江戸時代,徳川家康によって薬師堂領に9石8斗余の寺領寄進をうけたが,旧寺地は大半農地と化し,1892年に塔跡に石塔を建て往時をしのぶほどであった。現在の本堂は1733年(享保18)の建立,境内には万葉植物園や市立文化財保存館がある。
執筆者:根本 誠二 かつての寺域は北で360m,東で430mの素掘りの濠をめぐらし,西寄り1/3のところに伽藍中軸線があり,その線上に南から3間×2間の中門,7間×4間の金堂,7間×4間の講堂があった。金堂,講堂の中間両側には鐘楼,経蔵があり,その外側に南北棟の僧房を配していた。寺域の南東隅に塔跡があり,北の一段あがった段丘中位面の南端に,5間×4間の北院跡が残っている。平安時代のはじめ,講堂が両側を5間×4間から7間×4間に拡張されたこと,塔が焼失後再建されたことなどがわかっている。寺の北辺の濠の外に,国分寺に付属したと考えられる竪穴住居群がみられる。出土瓦には武蔵国内の諸郡が貢進したことを示す刻印や篦(へら)描きのあるもの,上申文書を篦描きしたものなどが早くから知られている。国分寺の南西300mに武蔵国分尼寺跡があり,金堂と尼坊跡が確認されている。国の史跡に指定されている。
執筆者:坪井 清足
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報