金丸村(読み)かねまるむら

日本歴史地名大系 「金丸村」の解説

金丸村
かねまるむら

[現在地名]新市町金丸

藤尾ふじお村の西方、神谷かや川の上流に位置し、「備後郡村誌」に「山七合田畑三合村ニ御座候、但旱損所」とある。芦田あしだ郡に属した。暦応二年(一三三九)一〇月六日付足利尊氏寄進状案(浄土寺文書)によれば、この時足利尊氏により「金丸・上山村地頭職并草村公文職」が備後国塔婆料所として浄土じようど(現尾道市)に寄進されている。ところが二年後の同四年一〇月二三日付足利直義下知状(同文書)によると、在庁官人の常五郎左衛門尉経康が金丸名の知行権を主張し、寄進をやめるよう要求した。そこで金丸名が浄土寺本所領たるか否かを備後守護細川頼春に尋ねたところ、「金丸名為竹内弥二郎兼幸跡之間、為闕所、御寄進浄土寺、但彼名内応輸田者、国衙相云々、(中略)応輸田国衙進止、其外為地頭職之由、雖承及、無分明所見云々」とのことで、経康の主張は根拠なしとして退けられた。

室町時代には金丸名は長福ちようふく(現京都市右京区)領となっており、長福寺文書に応永一五年(一四〇八)一二月一八日付沙弥覚勝打渡状以下、延徳三年(一四九一)一一月一〇日付太田垣俊朝施行状まで一一通の関連文書があり、宝徳四年(一四五二)七月一〇日付備後守護山名宗全安堵状には「梅津長福寺領備後国苻中金丸名事、亡父(時熙)令寄付之」の文言がみえる。

金丸村
かねまるむら

[現在地名]鹿西町金丸

南東は下曾禰しもそね(現羽咋市)、南は金丸出かねまるで(現同上)、南西は邑知おうち潟に面し、西は鹿島路かしまじ(現同上)、北西は眉丈びじよう山の分水嶺をもって羽咋はくい上棚うわだな(現志賀町)。山麓に沿って西往来が通り、邑知地溝帯を南流してきた長曾ながそ川が邑知潟に注ぐ。中世金丸保の遺称地。

天正八年(一五八〇)から長連竜領で、文禄二年(一五九三)の鹿島半郡高帳に村名がみえ、高一千六九六石余。寛永五年(一六二八)の上野組半郡人別帳(戸部文書)によると家数一〇四(うち百姓二九)、牛馬五一。

金丸村
かなまるむら

[現在地名]若宮町金丸

水原みずはら村の南東、犬鳴いぬなき川中流左岸に位置し、人家は本村および仮屋かりやの二ヵ所にあった(続風土記拾遺・地理全誌)。弘安八年(一二八五)三月日の水原若宮社村々相撲次第(町村書上帳/鎌倉遺文二〇)では、若宮八幡宮で行われる相撲の出仕役のうち五番に「金丸 倉久 山崎」がみえる。宗像社家文書惣目録(宗二)には「筑前国鞍手郡若宮庄竹原・金丸名主合屋代請文 一通 小河大膳輔明請文 応永十三年五月廿二日」とある。同目録の但書の記述によると、宗像氏は当地などを代官請していたが、竹原たけはら名・金丸かなまる名は大内盛見の干渉により返付せざるを得ず、新たに代官となった合屋氏は幼少のため、又代官の小河輔明が応永一三年(一四〇六)五月二二日に請文を提出している。

金丸村
かなまるむら

[現在地名]宇佐市金丸

出光いでみつ村の南、御許おもと山の北東裾野にある。向野むくの川の中流域に位置し、同川に沿う村東部の扇状地だけが平地で、あとは山地。豊後国境の村で、南東は同国速見郡平山ひらやま(現山香町)。天文一八年(一五四九)一二月一七日の佐田朝景所領注文(佐田文書)に散在分として「向野・金丸」などがみえる。近世の領主の変遷は小向野こむくの村に同じ。小倉藩元和人畜改帳によると高四五六石余、人数一八一、百姓三四(うち庄屋三)・名子一五、牛二四・馬四。享保一六年(一七三一)以降の数値と思われるが、田高二九九石余(二八町一反余)・畑高三九石余(八町九反余)、ほかに新切高八石余(田四反余・畑二町七反余)があり、山留給八石などが高引。

金丸村
かなまるむら

[現在地名]真野町金丸

国仲くになか平野の中央部をほぼ西流する国府こうの川とその南側を流れる小倉おぐら川が下流字落合おちあいにおいて合流する付近より、旧小倉川堤防の南北両側に細長く並ぶ集落。北の金丸沖に条里水田がみられた。北の国府川対岸下中興しもなかおく(現金井町)へ通じる道を挟んで東側が当村、西側が金丸本郷かなまるほんごう村。金丸郷・金丸保の遺称地。観応二年(一三五一)六月二七日の筑後守某奉書(本田寺文書)に「金丸郷」とみえ、金丸本郷村と一体をなしていた。

金丸村
かなまるむら

[現在地名]基山町大字園部そのべ字金丸

園部村から東へ延びる山脚丘陵の北側縁辺に立地し、村の北を山下やました川の上流御供田ごくでん川が流れる。延宝五年(一六七七)、東方六〇〇メートル、中隈なかぐま山南の平地から移村してきたものである(元禄絵図)

文永二年(一二六五)の肥前国検注帳案(竜造寺家文書)に、「基肄北郷」の内に「金丸名」とみえる。文明一一年(一四七九)筑紫満門が少弐政資から受けた安堵状(大宰府神社文書)に「肥前国基肄郡金丸拾弐町当知行也」とあり、戦国時代の一時期には筑紫氏の所領であったが、室町時代末期と推定される竜造寺田数帳(竜造寺家文書)に「金丸十二丁三反」とみえて竜造寺氏の所領となっている。

金丸村
かなまるむら

[現在地名]関川村金丸

あら川左岸にあり、西方に蛇崩じやくずれ(五三〇・四メートル)わかぶな(五一七メートル)があり、南東は急峻な山々を越えて出羽国へ続く。岩船郡東端に位置する山間の村。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図に「黒川分かなまり村」とみえ、本納八石一斗六升八合・縄高八石二斗九升八合で荒川右岸に描かれる。近世は初め村上藩領、宝永六年(一七〇九)幕府領正保国絵図では「金丸村 八十八石余」とある。万治二年(一六五九)の検地時には高一一九石三斗余・田畑一一町八反三畝余(「高反別取米書上帳控」平田家文書)。文政九年(一八二六)の家数一七・人数九一、馬一九(同一一年「家数人別書上帳」渡辺家文書)

金丸村
かなまるむら

[現在地名]甘木市金丸

佐田さだ川を挟んで小隈おぐま村の南東、同川下流左岸の平野部に位置する。下座げざ郡に属し、南は徳淵とくのふち村。江戸時代を通じて福岡藩領。郷村帳類では金丸村一村で高付されていたが、里民は上・下に分れているといい(続風土記附録)、「続風土記拾遺」は集落として本村と上金丸の二ヵ所をあげる。元弘三年(一三三三)一二月日の前大宮司惟時配分状写(阿蘇家文書/鎌倉遺文四二)に「金丸名」とみえ、同名などの七町五反が瀬田弥九郎に与えられている。

金丸村
かなまるむら

[現在地名]久保田町大字徳万とくまん

横江よこえ村・永里ながさと村を結ぶ中世の干拓堤塘線に成立した集落。

正保絵図に村名がみえる。天明三年(一七八三)の郷村帳には小字として福田・福島・田中の記載がある。

金丸村
かなまるむら

[現在地名]下館市金丸

小貝こかい川右岸に位置し、北は直井なおい村。古くは那須与一宗高の所領で宗高が源平合戦の際に戦功をあげたため、伊勢神宮に寄進したといわれる(真壁郡郷土史)。近世以降も永一〇貫文の伊勢神宮領で、元和九年(一六二三)の下館藩主水谷氏の検地からも除外され、天保八年(一八三七)の常陸御国絵図御改之記(中村家文書)には鎮守大神宮・八幡宮、家数六、馬四、伊勢神宮領岩淵二頭太夫支配所とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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