知覧城跡(読み)ちらんじようあと

日本歴史地名大系 「知覧城跡」の解説

知覧城跡
ちらんじようあと

[現在地名]知覧町永里

ふもと川の左岸、麓川に注ぐ小支流が浸食したシラス台地の縁にあった山城。標高一七六メートルを最高地点とする一一の曲輪(一部曲輪群)からなる。上木場うえこば城・上之木場うえのこば城ともいう。「薩隅日三州他家古城主来由記」は最初の城主を薩摩平氏一族頴娃忠永の四男忠信と伝える。忠信の子忠益は知覧郡司(院司)および御家人で、知覧院の地頭島津忠久であるが(喜入肝付家本薩摩国建久図田帳、建久八年一二月二四日「島津忠久内裏大番役支配注文」旧記雑録)、当時城が存在したこと、および忠信・忠益が城主であったかについては確認できない。忠信は郡司系知覧氏の祖となり(「平氏系図」指宿文書)、子孫忠世は鎌倉末期に地頭系知覧氏(忠久の子孫)忠直と同院鎮守開聞中宮ちゆうぐう大明神(現豊玉姫神社)の神領などをめぐって相論した(元亨四年三月八日「平忠世和与状」旧記雑録)。忠世は南朝方として、建武四年(一三三七)七月二一日に高橋松原たかはしまつばら(現金峰町)で島津貞久方と合戦し(同年八月三日「島津道意合戦手負注文」島津家文書)、興国三年(一三四二)にはその一族の忠元が南朝方の懐良親王のもとに参集した(六月吉日「御感綸旨所望輩注文」谷山文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「知覧城跡」の解説

ちらんじょうあと【知覧城跡】


鹿児島県南九州市知覧町にある城跡。別名、上木場(かみこば)城。知覧に残る武家屋敷の南1kmの地点にあり、麓川に注ぐ支流沿いのシラス台地の浸食谷を利用して空堀とし、標高約170mの台地上の本丸の周囲に倉ノ城(くらんじょう)、弓場城(ゆんばじょう)、今城(いまんじょう)をはじめとする10余の郭(くるわ)が配置されている。全域は南北約800m、東西約900mに及び、南に虎口のある本丸は、南北70m、東西70mの規模をもち、四周に土塁があり、平坦地を挟んで南西に倉ノ城、空堀を隔てて南東に今城がある。今城は南北120m、東西60mで、東、北、西に土塁がめぐり、その南西に弓場城が続いている。これらの主郭から幅70mの谷を隔ててさらに城域が広がり、それぞれの郭は40mにも及ぶ切り立った崖で守られている。平安時代末期に郡司であった知覧忠信が築城したといわれ、室町時代に佐多忠光が領主となり、その後、伊集院氏の配下となったが、1420年(応永27)に島津久豊が伊集院氏からこの城を取り返し、再び佐多氏居城となった。佐多氏は数年間をのぞいて幕末まで知覧の領主であった。しかし、城は火災にあって全焼し、一国一城令の発令前に廃城となったため、建物はまったく残っていない。発掘調査で15~16世紀の中国陶磁や洪武通宝、東南アジア産の陶器が出土している。1993年(平成5)に国の史跡に指定された。JR指宿枕崎線喜入(きいれ)駅から車で約30分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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