江崎上の惣門
えざきうえのそうもん
[現在地名]鳥取市東町一丁目
鳥取城郭内九つの惣門の一で、宮内御門、また宮内口ともいう。鳥取城南の御門から南東に向かい、東西両分知家の屋敷の間を通って栗谷川に至る約一四〇間の道(宮内通)のうち、天王の尾の先端が八間ほど突き出している地に造られていた。鳥取城および武士居住地である郭内への関門の一で、栗谷川から北に三〇間ほどのところにあり、道幅は約八間。またここから西の大名小路に向かって、西館家と堀の間を通って江崎下の惣門に続く幅二間ばかりの道もあった(安政六年城下絵図)。
〔惣堀〕
池田長吉の時代にそれまでの外構であった城南東の鳥取堀を内堀に取込み、新たに二町ほど南に張出して当惣門に始まる柳堤を造り、外曲輪としたらしい。江崎下の惣門辺りを蛇行していた古い袋川に堀をつなぎ、さらに南西方、現県立図書館付近より日本赤十字病院、市役所南裏を通って市民会館西側から北方に転じ、緩やかに弧を描いて現鹿野街道の市立醇風小学校(もとの柳蔵)辺りに至る堀を造り、内側に土手を築いて柳を植えて柳堤と称した。柳蔵から先、杉浦の惣門より山手口までの間は、おそらく宮部氏時代のままで、あるいは山名氏の頃の惣構かとも「鳥府志」は推定している。外構の堀は場所により山伏堀・三日月堀・薬研堀・柳堤などといろいろによばれたが、総称としては惣堀とよばれた。ここから山側が池田光政時代に新しい袋川が開削されて以来武家居住地となり、惣門内と称されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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