元亀元年(一五七〇)梶峰城主となった竜造寺長信が、同二年群臣の居宅を城下に構えさせたことに始まる。当時は「御城下」であった(水江事略)。また「
佐賀からの本道は、
古くは女山村・
明暦二年(一六五六)三月、城内上屋敷よりの出火で城下はほとんど焼失し、竜造寺長信以来の家臣団は地方采地に在郷したが、延宝五年(一六七七)一一月、三代領主茂矩は新館を東の原の多久弾右衛門の屋敷跡に建築。
廃藩置県後、米子城の内堀内側に相当する地域につけられた地名で、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...