郭内(読み)カクナイ

デジタル大辞泉 「郭内」の意味・読み・例文・類語

かく‐ない〔クワク‐〕【郭内/×廓内】

仕切られた地区の内。城・遊里などの囲いの内。⇔郭外

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精選版 日本国語大辞典 「郭内」の意味・読み・例文・類語

かく‐ないクヮク‥【郭内・廓内】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 一区画に仕切られたものの内部。外囲いの内。郭中。⇔郭外
    1. [初出の実例]「所占郭内及七八町。有山有水。有田有園。可余筭於此処也」(出典:貴嶺問答(1185‐90頃)九月八日)
    2. [その他の文献]〔杜甫‐倚杖詩〕
  3. 内裏で閤門(こうもん)の内。
  4. 遊里の内。郭中。⇔郭外
    1. [初出の実例]「お顧客(とくい)は廓内(カクナイ)に居つづけ客のなぐさみ」(出典:たけくらべ(1895‐96)〈樋口一葉〉八)

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日本歴史地名大系 「郭内」の解説

郭内(御構内)
こうない(ごこうない)

[現在地名]多久市多久町たくまち 東の原ひがしのはる西の原にしのはる東町ひがしまち西町にしまち浦町うらまち道祖元さやのもと桐岡きりおかおか

梶峰かじみね城下、山麓の北面東西にわたって展開する一帯若宮わかみや八幡宮参道を中心に、東を東の原、西を西の原と称し、多久町(現東町・西町・浦町・道祖元・桐岡・岡)を含む。「郭内ハ俗ニ御構内ト云」(丹邱邑誌)とあり、今も御構内と称され、また現在の通称は本多久ほんたくである。

元亀元年(一五七〇)梶峰城主となった竜造寺長信が、同二年群臣の居宅を城下に構えさせたことに始まる。当時は「御城下」であった(水江事略)。また「小路くうじ廻り」ともよび、数百の家老・馬乗・侍中や土民の屋敷が建っていた。北側のうう(牛津川)沿いには多久町が興り、街巷市坊をなして、当初より租税免許の地であったという(丹邱邑誌)

佐賀からの本道は、長尾ながお宿から大川猿渡瀬さるわたせを渡り、山崎やまさき山麓を回って八溝やつみぞを通過、椋瀬むくのせ橋を経ると多久町駅に至り、さらに道祖元からおんな山に向かう伊万里往還、岡の原おかのはる(現岡)・桐岡を経て志久しく峠またはうう峠を越える杵島きしまへの道も、この多久町駅から分れていた。

古くは女山村・板屋いたや村・藤河内ふじのかわち(三村併せて現西多久町)とともに上多久かみたく庄と称された(丹邱邑誌)。建久四年(一一九三)多久太郎宗直築城時も、北に多久川(牛津川)を背に、南におにはな山・大峰尾おおみねお連峰を控えて、中核的集落であったと推測され、後代前述のように城下となった。

明暦二年(一六五六)三月、城内上屋敷よりの出火で城下はほとんど焼失し、竜造寺長信以来の家臣団は地方采地に在郷したが、延宝五年(一六七七)一一月、三代領主茂矩は新館を東の原の多久弾右衛門の屋敷跡に建築。


郭内
かくない

[現在地名]二本松市郭内

二本松藩士の屋敷地。寛永二〇年(一六四三)の丹羽光重入城以前と以後とでは大きく異なり、現在郭内の地名でよばれる地域が屋敷地とされたのは光重以後である。丹羽光重年譜(二本松市史)の慶安二年(一六四九)七月条に「商家及寺社ノ地ヲ郭外ニ移シ(中略)城郭ヲ広テ侍屋ヲ其郭内江置(中略)経営ヲ始」とあり、同年譜付録(同書)によれば、明暦三年(一六五七)六月二五日に「以御老中得上意町屋を外かわへ出し右町屋之外田畑を地形に仕立侍共今年ニ至迄住宅申付候事」という書面を差出している。したがって丹羽氏時代の郭内は慶安三年から明暦三年までに整備されたことになる。

〔丹羽氏以前〕

安井時僚覚書(二本松市史)に光重二本松入部以前の往還として、正法しようぼう寺辻堂より大段おおだん(大壇)の後ろを通り一ノ町の頭に出る道と、二ノ町―六ノ町、馬場ばば町・代官だいかん町を経て宮下みやした御殿の前を通り、油井満福ゆいまんぷく(現安達町)前から長谷堂はせどう福岡ふくおかに至る道があったと記されている。ここで使われている地名はすべて丹羽氏時代のものであるが、経路はほぼ妥当といえる。正保二本松城絵図(内閣文庫蔵)は丹羽氏が差出したと思われるが、前の加藤氏時代の城と城下町が図示されており、この絵図によると主要道は大壇方面から北上して枡形に達している。


郭内
かくない

[現在地名]米子市久米町くめちよう

廃藩置県後、米子城の内堀内側に相当する地域につけられた地名で、みなと山とその東のいい山およびその北麓の二の丸・三の丸跡を中心とする。明治五年(一八七二)の「鳥取県御管内郡村名」に郭内とみえる。同二一年の調書(米子市史)では農五・商一・雑七。同二九年西伯さいはく郡役所が西にし町から飯山北麓に移転、大正一五年(一九二六)まで同所にあった。この間明治三五年には内堀が埋立てられ水田となっている。同三八年には郡役所隣で米子製鋼所(のち山陰金属工業)の工場が操業開始、そのほか明治期には坂口商店・稲田本店の酒造工場、冷蔵会社、板垣辰三郎の米城焼窯場、原弘業の弘乳舎などが設けられていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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