郭内(読み)カクナイ

デジタル大辞泉 「郭内」の意味・読み・例文・類語

かく‐ない〔クワク‐〕【郭内/×廓内】

仕切られた地区の内。城・遊里などの囲いの内。⇔郭外

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「郭内」の解説

郭内
かくない

[現在地名]二本松市郭内

二本松藩士の屋敷地。寛永二〇年(一六四三)の丹羽光重入城以前と以後とでは大きく異なり、現在郭内の地名でよばれる地域が屋敷地とされたのは光重以後である。丹羽光重年譜(二本松市史)の慶安二年(一六四九)七月条に「商家及寺社ノ地ヲ郭外ニ移シ(中略)城郭ヲ広テ侍屋ヲ其郭内江置(中略)経営ヲ始」とあり、同年譜付録(同書)によれば、明暦三年(一六五七)六月二五日に「以御老中得上意町屋を外かわへ出し右町屋之外田畑を地形に仕立侍共今年ニ至迄住宅申付候事」という書面を差出している。したがって丹羽氏時代の郭内は慶安三年から明暦三年までに整備されたことになる。

〔丹羽氏以前〕

安井時僚覚書(二本松市史)に光重二本松入部以前の往還として、正法しようぼう寺辻堂より大段おおだん(大壇)の後ろを通り一ノ町の頭に出る道と、二ノ町―六ノ町、馬場ばば町・代官だいかん町を経て宮下みやした御殿の前を通り、油井満福ゆいまんぷく(現安達町)前から長谷堂はせどう福岡ふくおかに至る道があったと記されている。ここで使われている地名はすべて丹羽氏時代のものであるが、経路はほぼ妥当といえる。正保二本松城絵図(内閣文庫蔵)は丹羽氏が差出したと思われるが、前の加藤氏時代の城と城下町が図示されており、この絵図によると主要道は大壇方面から北上して枡形に達している。

郭内
かくない

[現在地名]米子市久米町くめちよう

廃藩置県後、米子城の内堀内側に相当する地域につけられた地名で、みなと山とその東のいい山およびその北麓の二の丸・三の丸跡を中心とする。明治五年(一八七二)の「鳥取県御管内郡村名」に郭内とみえる。同二一年の調書(米子市史)では農五・商一・雑七。同二九年西伯さいはく郡役所が西にし町から飯山北麓に移転、大正一五年(一九二六)まで同所にあった。この間明治三五年には内堀が埋立てられ水田となっている。同三八年には郡役所隣で米子製鋼所(のち山陰金属工業)の工場が操業開始、そのほか明治期には坂口商店・稲田本店の酒造工場、冷蔵会社、板垣辰三郎の米城焼窯場、原弘業の弘乳舎などが設けられていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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