江見村(読み)えみむら

日本歴史地名大系 「江見村」の解説

江見村
えみむら

[現在地名]鴨川市東江見ひがしえみ西江見にしえみ

青木あおき村の西に位置し、伊南房州通いなんぼうしゆうどおり往還が村内を通る。朝夷あさい郡に属し、慶安二年(一六四九)東江見村と西江見村に分村したというが(安房郡誌)史料には江見村とみえることが多い。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に江見村とみえ、高八二二石余(うち田方は四六九石余)、里見氏直轄領。正保郷帳にも江見村とあり、高六二二石余、うち田方三九七石余・畑方二二四石余、旗本上野領・同内藤領各三一一石余。その後両氏領とも収公されるが、享保一二年(一七二七)の安房国村々助郷請帳(岩崎家文書)では江見村は旗本松平領一九石・同大島領二一一石余となっている。元文村高帳では旗本瓦林領五〇三石余・同浅野領一〇〇石・北条藩水野氏(のち鶴牧藩主)領一九石余になっている。「伊能忠敬測量日記」でも同じ三給支配で、「瓦林ノ方ヲ東江見西江見と分ツ」と記されている。天保村高帳では江見村四ヵ村として高六二二石余、うち鶴牧藩水野氏領一九石余は西江見村、瓦林領分は二九一石余が西江見村、二一一石余が東江見村、浅野領一〇〇石は江見村とある。


江見村
えみむら

[現在地名]三根町大字市武いちたけ字江見

切通きりどおし川と開平江かいたいえ川とが連結してつくる逆U字形の河道の頂部に臨んでいる。この河道は戦国時代には筑後川の本流で、その後、南部の曲流の基部(下田しもだ)に城が築かれ、その南に城堀を設けたところ、洪水の際にこの城堀の部分に川が短絡して本流が変わった。逆U字形内は筑後国葦塚あしづか下田両村(現福岡県三潴みづま城島じようじま町の飛地)で佐賀平野に深く入っているから、当村は肥前・筑後の国境に位置する。切通川・開平江川をこの辺りでは江見川ともさかい川ともいい、いま両国橋が架かる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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