江野村(読み)えのむら

日本歴史地名大系 「江野村」の解説

江野村
えのむら

[現在地名]旭区中宮なかみや一―四丁目・高殿たかどの三―五丁目

東成ひがしなり郡北部の村で南と西はなか村、北は淀川に接する。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図には「江ノ島村」とみえ、往古は淀川河口付近の中洲であったとも考えられる。字殿屋敷とのやしきには石山合戦の際の本願寺(跡地は現東区)の端城の一つがあったといわれるが詳細は不明。

元和元年(一六一五)から五年まで大坂藩松平忠明領、続いて幕府領となり、「東成郡誌」によれば天明八年(一七八八)から寛政元年(一七八九)または同五年まで京都所司代松平乗完領、幕末は大坂城代領(役知)


江野村
ごうのむら

[現在地名]豊岡市江野

新堂しんどう岩熊いわくま伊賀谷いがだに三ヵ村の西、大浜おおはま川の源流部に立地し、西は江野峠を経て美含みくみ森本もりもと(現竹野町)に至る。南は宮井みやい村。郷野村とも記した。江戸時代の領主変遷栃江とちえ村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高二一七石余。宝暦六年(一七五六)の村明細帳(五荘村有文書)でも高二一七石余、家数一〇一・人数四四六、鎮守は山王大権現(現小江神社)。曹洞宗徳養とくよう寺がある。


江野村
ごうのむら

[現在地名]志賀町赤住あかすみ

松戸まつと村の南、赤住村の内に寛文三年(一六六三)村立てされたという。三箇国高物成帳には「片山海辺郷野村」として「此村之儀寛文三年新開高ニ而、其節一村立ニ被仰付候得共、村御印相渡不申候」と記し、寛文三年新開高四九石余、文化一四年(一八一七)御納所仕高五五石余、免三ツ二歩とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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