日本歴史地名大系 「沖宿村」の解説 沖宿村おきじゆくむら 埼玉県:深谷市沖宿村[現在地名]深谷市起会(おきあい)小山(こやま)川右岸の沖積低地に位置する。深谷領に所属(風土記稿)。同書に「下ノ沖村ト入会ノ地」と記され、境界が判然としないため両村を合せると東は戸森(ともり)村、西は大塚島(おおつかじま)村、南は曲田(まがつた)村・西大沼(にしおおぬま)村、北は内(うち)ヶ島(しま)村。用水は備前渠(びぜんきよ)用水を矢島(やじま)堰より取水し、南縁を丈方(じようほう)川(福川)が東流する。なお沖村が下と記されることから、当村は沖村のやや西方にあったとも考えられる。田園簿によれば田方一七八石余・畑方四一石余、幕府領。 沖宿村おきじゆくむら 茨城県:土浦市沖宿村[現在地名]土浦市沖宿町南は霞ヶ浦に臨み、東・北は戸崎(とざき)村(現新治郡出島村)、西は田(た)村。天正一八年(一五九〇)結城秀康領となり、文禄四年(一五九五)三月九日、検地が実施された(「常陸国新治郡沖宿之郷御縄打水帳」浜田孝久氏蔵)。検地帳では畑を「い壱」「い二」「ろ壱」「ろ二」と順序だてて記載している。田畑の面積はほぼ同じで、耕地面積は他村と比較して広く、名請人や屋敷持の数も多い。湖岸にあるため災害が多く、田は連年災害を被っている。とくに天明六年(一七八六)の水害の被害は大きく、田方の本免三三二石のうち水損引方二九二石となっている。享保元年(一七一六)から幕末までの一五〇年間に村高の四分の一以上の引高があった年は、五五回に及んでいる(「沖宿村御年貢可納割付一覧表」土浦市史編集資料)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by