デジタル大辞泉
「土浦市」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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土浦市
つちうらし
面積:九一・五一平方キロ
県南部、霞ヶ浦の西に位置し、東・西・北は新治郡、南は稲敷郡・筑波郡に接する。市域は東流して霞ヶ浦に注ぐ桜川の沖積層の低地によって、北の新治台地(標高二五―二七メートル)と南の筑波・稲敷台地(標高二四―二五メートル)に分けられる。土浦の地名の初見は、元徳元年(一三二九)一二月四日の常陸国信太庄上条京進絹代結解状(東寺百合文書)に「注進 常陸国信太上条内弘戸土浦小池三ケ郷京進絹代正中二嘉暦元二三以上四ケ年結解事」とある。
〔原始〕
台地上には縄文時代の遺跡や貝塚が多くあり、沖宿・常名・上高津・小松などに貝塚が、手野・神立・永国・右籾などに遺跡がみられる。弥生時代の遺跡は縄文時代・古墳時代との複合遺跡で大岩田・永国・烏山などにみられる。古墳は市域に数多くみられるが、うち前方後円墳は手野の王塚古墳・后塚古墳、常名の天神山古墳など一一基あり、真鍋台や今泉などには円墳・方墳もみられる。出土品には女性の人物埴輪(今泉愛宕山古墳)・馬形埴輪(常名並木出土)・滑石製石枕(今泉出土)などがある。古墳時代の住居跡は真鍋台・殿里・大岩田・永国・烏山などにみられるが、真鍋台の住居跡(現市立土浦二中校庭)は竪穴住居跡が二〇軒、東西一五メートル・南北二〇メートルの間隔で東西五列・南北四列に並んでいた。
〔古代〕
大和朝廷の東国統一後、土浦市域は茨城国・筑波国に属したと推定される。大化改新後に常陸国が成立したが、市域は茨城・筑波・信太・河内の四郡の境に位置し(常陸国風土記)、「和名抄」記載の茨城郡大津郷、筑波郡佐野郷・清水郷、信太郡中家郷などが市域にあったと思われる。天平勝宝八年(七五六)一〇月の葡萄唐草文錦褥墨書(法隆寺献納宝物)に「常陸国信太郡中家郷戸主大伴部羊調貢布」とあり、中家郷から調として麻布が納められている。また「斑鳩古事便覧」には同六年一〇月の調布の墨書銘が記されている。
荘園の発生によって、土浦市域も桜川以南の信太庄と以北の村田庄南野牧に組込まれた。信太庄は仁平元年(一一五一)に領家藤原宗子によって本家美福門院に寄進された寄進地系荘園で、永暦元年(一一六〇)に美福門院の死去により八条院に譲渡され、以後鎌倉時代を通して続いた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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土浦〔市〕
つちうら
茨城県南部,霞ヶ浦の西岸にある市。 1940年市制。 1948年津和村,朝日村それぞれの一部,1954年上大津村,2006年新治村を編入。江戸時代,水戸街道の宿場町,霞ヶ浦水運の港町,城下町として栄えた。第2次世界大戦中は海軍航空隊の諸施設が置かれ,軍都の性格を強めた。戦後は県南の商業の中心地として発展。食品,繊維,機械,セメントなどの工場が進出し,北東部には土浦千代田工業団地が造成されている。レンコン,花卉の栽培が盛んで,北西部では果樹栽培が行なわれる。東京の通勤圏内に位置し,都市化が著しい。水郷筑波国定公園の玄関口。桜祭と花火大会は有名。国の史跡に上高津貝塚,国の重要文化財に旧茨城県立土浦中学校本館,等覚寺と般若寺の銅鐘,常福寺の木造薬師如来坐像,法雲寺の絹本著色復庵和尚像などがある。 JR常磐線,国道6号線,125号線,354号線が通り,常磐自動車道のインターチェンジがある。面積 122.89km2。人口 14万2074(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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