沢山村(読み)さわやまむら

日本歴史地名大系 「沢山村」の解説

沢山村
さわやまむら

[現在地名]常陸太田市瑞竜ずいりゆう

国見くにみ山の南東斜面の渓谷にあり、北は常福寺じようふくじ村。天正二〇年(一五九二)八月二八日の佐竹義宣寄進状(秋田県立図書館蔵)に「佐都之西郡大田之内沢山并すい里う高蔵」とみえ、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「沢山村」とある。元禄郷帳には村名の記載がないが、天保郷帳にはあり「瑞竜村分郷」と注記される。天保一三年(一八四二)に瑞竜村に編入された。「水府志料」には「此村皆耕山寺領也」とある。

寛文三年(一六六三)開基帳(彰考館蔵)によると、臨済宗増井ましい正宗しようじゆう寺末寺の大沢山瑞竜院と大綱山旌桜せおう寺がある。


沢山村
さわやまむら

[現在地名]青森市沢山

戸山とやま村の南にある山間小村。南を沢山川が北西流する。

延宝八年(一六八〇)横内組につくられた派立新田二千八〇〇石のうちの一村である(津軽歴代記類)。貞享四年(一六八七)検地帳には、田方二町五畝七歩、畑方一九町二反九畝一三歩、田畑屋敷合せて二一町三反四畝二〇歩、村高三四・八〇六石とあり、圧倒的に畑が多い。しかも中畑四畝二四歩のほかは、すべて下田・下々田・下畑・下々畑に格付けされている。元禄三年(一六九〇)には横内組に属し、村位は下である(平山日記)。安永元年(一七七二)沢山村領の山子沢一ヵ所一三万八千三〇坪、草ノ沢一ヵ所七万二千坪、薬子沢一ヵ所五万九千四七〇坪が、役銀一〇匁で横山七五三介の抱山となった(日本林制史資料)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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