出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
(笠谷和比古)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
江戸前期の大名。御三家一つの水戸家の祖。慶長(けいちょう)8年8月10日、徳川家康62歳のとき、末子として伏見(ふしみ)城で生まれる。幼名は鶴千代(つるちよ)(鶴松(つるまつ))。母は正木頼忠(まさきよりただ)の娘於万(おまん)の方。養母は家康の側室於勝(おかち)の方(太田氏)。3歳のとき下妻(しもつま)10万石に封ぜられたが、藩政は城代や付家老(つけがろう)があたった。鶴千代が水戸25万石の城主となったのは1609年(慶長14)12月12日、7歳のときである。頼房の藩政は、59歳、水戸城で没するまで、53年の長期に及んだ。学問に励み、神道(しんとう)を学ぶなど、2代の光圀(みつくに)にも影響を与えたといわれる。領内総検地、城下町の開設、新田の開発などにも努め、水戸藩の基礎を築いた。死後威公と諡(おくりな)された。
[瀬谷義彦]
1603.8.10~61.7.29
江戸前期の大名。御三家の一つ水戸徳川家の祖。徳川家康の十一男。母は側室養珠院(お万の方)。1605年(慶長10)3歳で常陸国下妻10万石に封じられ,09年に同国水戸25万石の藩主となり,22年(元和8)3万石を加増されて28万石を領した。入国は19年で,この間付家老(つけがろう)の中山信吉らが藩政を行った。入国後は水戸城下町の建設,領内総検地の実施,鉱山開発など藩政の整備に努めた。26年(寛永3)従三位権中納言に叙任。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…その名称はともに中国宋代の范文正《岳陽楼記》の〈士当先天下之憂而憂 後天下之楽而楽〉からつけられた。
[小石川後楽園]
水戸藩初代の徳川頼房が徳川家光から江戸中屋敷として与えられた地に1629年(寛永6)築造を始めた。2代光圀(みつくに)もこれを継承し,中国明の遺臣朱舜水の意見を用いて中国趣味を付け加え,市民にも観覧を許可した。…
…水戸藩の付家老。家譜によれば宣化天皇の裔,姓は丹治,子孫は武蔵に住し,のち中山氏を称したという。信吉のとき徳川家康に仕え,1607年(慶長12)家康の命で十一男の頼房の守役(もりやく)となり,14年頼房が水戸藩主となると,付家老となって水戸領内で1万5000石の知行地を与えられた。14代信徴(のぶあき)のとき維新政府のもとで,1868年(明治1)1月,他の三家付家老とともに藩屛に列せられ,2万5000石の松岡藩として独立した。…
…茨城県中央部にある県庁所在都市。1889年市制。1992年常澄村を編入。人口24万6347(1995)。市域の大半は常陸台地と那珂川沖積地に広がる。主要市街地は,那珂川と千波(せんば)湖にはさまれた台地上の上市(うわいち)と那珂川の沖積低地上の下市(しもいち)とからなる。12世紀末,大掾資幹(だいじようすけもと)が館を置き,佐竹氏の支配を経て近世に水戸藩の城下町となってから大きく発展した。1889年,両地区の接点に常磐線水戸駅が開設されたが,行政中心は上市に置かれ,以後の都市発展は上市が中心となった。…
※「徳川頼房」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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