佐竹義篤(読み)さたけよしあつ

改訂新版 世界大百科事典 「佐竹義篤」の意味・わかりやすい解説

佐竹義篤 (さたけよしあつ)
生没年:1311-62(応長1-正平17・貞治1)

南北朝時代武士佐竹貞義の子。刑部大輔,右馬権頭,入道して浄喜。1335年(建武2)の足利尊氏挙兵以降一貫して足利氏に属してその覇業を助け,みずからも勢力をのばした。52年(正平7・文和1)ころ父貞義から常陸守護職継承,54-57年室町幕府侍所頭人を務めた。54年嫡子義香(義宣)に,62年には次男義躬以下の子女にそれぞれ所領を譲渡した。
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朝日日本歴史人物事典 「佐竹義篤」の解説

佐竹義篤

没年貞治1/正平17.1.12(1362.2.7)
生年:応長1(1311)
南北朝時代の武将。貞義の子。通称次郎。刑部大輔,右馬権頭に任ず。足利尊氏・直義に従い各地で新田義貞,楠木正成らと奮戦し,父と同じく常陸国(茨城県)守護に補任される。尊氏と直義が争った観応1/正平5(1350)年の観応の擾乱では,尊氏を支持する弟師義に対抗して直義寄りの立場をとるが,のち尊氏方に転じて着実に佐竹氏の勢力を伸ばす。兄の月山中枢と共に,常陸への臨済禅の普及に貢献,また中枢を通じて足利氏の信頼を集めるなど,柔軟な外交と堅実な所領支配によって佐竹氏を東国屈指の大名に飛躍させた。文和4/正平10年嫡子義香に,貞治1/正平17年1月には子弟ら十余人に,それぞれ所領を分割譲渡した。

(市村高男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「佐竹義篤」の解説

佐竹義篤(1) さたけ-よしあつ

1311-1362 鎌倉-南北朝時代の武将。
応長元年生まれ。佐竹貞義(さだよし)の子。建武(けんむ)2年足利直義(ただよし)に属して箱根竹下で新田義貞の軍をやぶる。父の死後,常陸(ひたち)(茨城県)の守護職(しき)をうけつぐ。夢窓疎石(むそう-そせき)に禅をまなび,入道して春山浄喜と号した。康安2=正平(しょうへい)17年1月11日死去。52歳。通称は次郎。

佐竹義篤(2) さたけ-よしあつ

1507-1545 戦国時代の武将。
永正(えいしょう)4年生まれ。佐竹義舜(よしきよ)の子。常陸(ひたち)(茨城県)太田城主。佐竹氏の一族宇留野(うるの)家をついだ弟の佐竹(宇留野)義元(よしもと)と12年にわたり家督をあらそい,天文(てんぶん)9年部垂(へたれ)城を攻め,義元をほろぼした。天文14年4月9日死去。39歳。

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367日誕生日大事典 「佐竹義篤」の解説

佐竹義篤 (さたけよしあつ)

生年月日:1507年7月2日
戦国時代の武将
1545年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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