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平安中期の武将。源頼信の長男。母は修理命婦(しゆりみようぶ)。武芸にすぐれ,平忠常の乱には父に従って坂東に下向,〈勇決群を抜き,才気世を被う〉と称賛されたという。相模守として在任中,弓馬の士でその門客となる者が多く,東国武士を主従関係のもとに組織した。1051年(永承6)陸奥守,53年(天喜1)鎮守府将軍を兼ねる。当時陸奥に勢力をふるい代々の国司に反抗していた安倍頼時は頼義の着任と同時に帰順,しかし頼義の任期が満ちると56年,両者の間に争いが起こった。そのため朝廷は頼義に安倍氏追討を命じ陸奥守に再任。翌57年,安倍頼時は討たれたが子の貞任(さだとう),宗任(むねとう)が頑強に抵抗,62年(康平5)清原武則の援を得て頼義はようやく貞任を討ち,宗任を捕らえて乱を平定した(前九年の役)。63年戦功により正四位下伊予守となる。この戦いを通じて東国における源氏の地位が確立された。同年8月相模由井郷に石清水(いわしみず)八幡宮を勧請(かんじよう)(鶴岡八幡宮の起源)。
執筆者:飯田 悠紀子
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平安中期の武将。頼信(よりのぶ)の子。1031年(長元4)父に従い、平忠常(ただつね)の乱を鎮定した。小一条院(こいちじょういん)(敦明(あつあきら)親王)の判官代(ほうがんだい)として仕え、功により36年相模守(さがみのかみ)となり、東国の武士を従えた。51年(永承6)陸奥(むつ)の安倍頼時(あべのよりとき)(頼良(よりよし))が背くと、頼義は陸奥守として鎮撫(ちんぶ)に赴いた。頼時は降服し、53年(天喜1)頼義は鎮守府将軍となったが、56年に頼時はふたたび反乱を起こした。翌年、頼義は頼時を討ったが、頼時の子貞任(さだとう)を中心とする安倍氏の抵抗の前に苦戦し、出羽(でわ)の清原(きよはら)氏の援助を得て62年(康平5)やっと貞任を討ち、安倍氏を滅ぼし(前九年の役)、その功により翌年、正四位下、伊予(いよ)守となった。妻は平直方(なおかた)の娘。
[上横手雅敬]
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(朧谷寿)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
988~1075.10.12
平安中・後期の武将。頼信の長男。母は修理命婦(しゅりのみょうぶ)。1031年(長元4)父とともに平忠常の乱を鎮圧。東国の国司を歴任,在地武士の組織化を進めた。51年(永承6)陸奥守,53年(天喜元)鎮守府将軍となり安倍氏と対立,前九年の役を起こす。清原武則の応援をえて平定し,東国における源氏の地位を確立。相模国由比郷(現,神奈川県鎌倉市)に石清水八幡宮を勧請し,鶴岡八幡宮の起源とした。平直方の女婿となり,鎌倉の屋敷を譲られた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…1056年(天喜4)から62年(康平5)まで,陸奥守兼鎮守府将軍源頼義と陸奥国の安倍氏の一族との間で戦われた戦乱。古くは源頼義が陸奥守になった1051年(永承6)から62年までの12年間を乱の期間と見て,奥州十二年合戦といわれていた。…
…旧国幣中社。1063年(康平6)源頼義が安倍貞任を追討する際戦勝祈願をした石清水(いわしみず)八幡宮を由比郷に勧請したのが始まりで,その子義家は81年(永保1)修復を加えるとともに小林郷に移した。その後1180年(治承4)平氏打倒の旗印をかかげて伊豆に蜂起した頼朝は同宮を小林郷北山の地に遷した。…
※「源頼義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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