沢川村(読み)そうごうむら

日本歴史地名大系 「沢川村」の解説

沢川村
そうごうむら

[現在地名]福岡町沢川

ふちたに村の北、子撫こなで川の水源地の山間村。西方能登国に属する沢川村(現石川県押水町)があり、越中沢川・能登沢川と区別された。永禄(一五五八―七〇)頃と推定される四月二〇日の狩野良政書状(田畑文書)は「さわこ」の田端氏に宛てられており、同氏が富山城を追われた神保長職方に味方したとの風聞について問うている。能登の三宅弾正家秀に属した田端兵衛は入道後、当地に隣接する「志雄之保南山之内、蛇崩・十八尾并泉原」の地を与えられ(年未詳九月三日「三宅家秀書状」同文書)、当地に移住したという(「田畑家由緒書」同文書)。天正一二年(一五八四)佐々成政が能登の末森すえもり(現押水町)を攻めた際、成政の動きを末森城に通報し、この功により前田利家から同一二年一一月六日、田端家伝来の山林を安堵され(「前田利家扶持状」同文書)、同一九年一一月七日に再び山林・田地を安堵されている(「前田利家扶持状」同文書)


沢川村
そうごうむら

[現在地名]押水町沢川

宝達ほうだつ山南腹にある越中国境の山村で、標高約三六〇メートル。ソウゴともよぶ。東は越中沢川村(現富山県福岡町)。村名は開発百姓水上氏の庭前の泉が大海おおみ川の水源となっていることにちなむという(羽咋郡誌)正保郷帳の高三四石余、田方九反余・畑方一町三反余、免三ツ三歩九厘。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高三七石、免四ツ、小物成は山役三〇目、鳥役二匁(出来)であった(三箇国高物成帳)。天保年間(一八三〇―四四)の村明細でも村高はほぼ同じ、家数九・人数四八、馬八、稼は杪・柴であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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