河上庄(読み)かわかみのしよう

日本歴史地名大系 「河上庄」の解説

河上庄
かわかみのしよう

和名抄」記載の川上かわかみ郷の地に成立したとみられる庄園。庄域は坪付などから石田いしだ川北岸から百瀬ももせ川南岸にかけてと推定される。治暦四年(一〇六八)三月二九日の太政官牒写(布留宮清信氏所蔵文書)などによれば、天平一二年(七四〇)角山君家足が墾田を小野石根に寄進、その後前太政大臣(藤原頼道)家領となり、山城宇治平等院へ寄進されたという。嘉祥四年(八五一)立券、治暦四年不輸不入を認められ、四至は東に水海、南はつの河・山の峰、西は杣山・若狭国境、北は山田谷・黒河を限るとある。庄園としての成立事情については疑問があるものの、一一世紀には平等院領であったのはほぼ確実で、仁平元年(一一五一)には佐保さほ殿(現奈良市)で藤原頼長が催した饗の費用が課されている(「台記別記」同年六月一〇日条)。嘉元三年(一三〇三)頃とされる摂渡庄目録(九条家文書)に同院領として庄名がみえる。年貢六三〇石・檜皮一〇〇井、平等院修理料所に付せられ、泰継朝臣の知行、のち寺家雑掌に召付けられたと注記される。弘安九年(一二八六)時の領家は前平中納言(時継か)で、前年来の損亡にかかわると推定される庄民からの訴えが領家に出された(「勘仲記」同年九月一三日条)。暦応五年(一三四二)の摂渡庄目録(九条家文書)にも庄名がみえるので、南北朝期まで平等院領として名目をとどめていたことになる。


河上庄
かわかみのしよう

高山市から大野郡清見きよみ村にかけての川上かわかみ川流域を庄域としたと考えられる。仁安元年(一一六六)頃の飛騨国雑物進未注進状(宮内庁書陵部蔵)に「川上郷」がみえ、本郷六一町一段三〇歩、うち二町六段が白山例免で、続けて福寄ふくより(現清見村)一三町二一〇歩とある。福寄村は同郷内を開発して新たに独立した村と思われる。また収納苧三九目の項に「川上一目」が未進となっている。

建長七年(一二五五)一一月一八日大野郡河上庄が立庄され、白山長滝ちようりゆう(現郡上郡白鳥町)領として認められた(「官宣旨写」内閣文庫蔵楓軒文書纂、文書様式上問題あり)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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