河尻町
かわしりまち
[現在地名]熊本市川尻町
緑川下流に位置し、南は野田村と下益城郡杉島手永の杉島村(現富合町)、西は今村・中牟田村(現飽託郡天明町)、北は横手手永の椎田村、東は託麻郡本庄手永の方指崎村に接する。「河」と「川」は混用された。現在も緑川と加勢川が複雑に曲流するが、鎌倉時代に大慈寺が建立される頃まで、緑川と白川は合流しており、河尻はその河口の津口で河港として開けてきた。百済の高官となっていた日羅(日本書紀)が帰国する際、河尻に着いたと伝えられ、杉島村にあった観音寺は神護景雲三年(七六九)日羅の開基という伝承をもつ。安貞元年(一二二七)には曹洞宗の開祖道元が、宋からの帰途暴風に遭い河尻に漂着しており(事蹟通考)、道元に従っていた加藤景正は河尻で茶器を焼き藤四郎焼とよばれたが、のち瀬戸焼の祖となったという。
鎌倉初期の建久初年、河尻庄の地頭に任命された河尻実明は守富庄(現富合町)の木原氏と関係が深いとする説が有力である。実明は河尻城を築き、また河尻の津を河港として整備発展させた。実明の子孫泰明は寒巌義尹の大慈寺建立を助け、弘安五年(一二八二)一〇月八日には河尻大渡橋の北を寺地とし、同七年一〇月一三日には河尻郷牟田を寄進している(「源泰明寄進状案」大慈寺文書)。河尻幸俊は足利尊氏方に属し活躍したが(太平記)、正平五年(一三五〇)南朝方の菊池武光に降服した(「河尻氏系図」事蹟通考)。その後河尻実昭の代、応永二七年(一四二〇)河尻氏は没落した(国誌)。中国の明時代の「図書編」には「開懐世利」と表記され、肥後六港の一つにあげられている。ポルトガルの宣教師シルバはインドより来日し、永禄六年(一五六三)河尻で布教し、翌年高瀬(現玉名市)で死去している。
近世になると藩の軍港および年貢米の積出しなどの商港として発展した。加藤清正は河尻に御船手を置き、天正一七年(一五八九)秋小西行長の天草攻め援助のため一万余の兵を率いて河尻を出発し、志岐(現天草郡苓北町)に向かった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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